─臓器移植ガイド─ [5] 3. 恩師と生涯の友を得た大学①
〜前回までのあらすじ〜
麻生芳人70歳、10年前まで救急医療センターの長だった。麻生が45歳で南東北救急医療センターの前身だった公立病院の副院長になった冬、仙台の学会に行くという旧友の中田秀雄が麻生の家に泊まることになった。実家が東京の胃腸科病院だった中田は、麻生に医学部進学を薦め、麻生の人生を決定づけた親友だった。中田も関西の旧帝大医学部から循環器の医局に入ってアメリカ留学。帰国後ずっと陽の当たる場所を歩んできたが、教授に疎まれ自ら大学を飛び出して以後、民間病院で臨床に当たってきた。そんな中田に、麻生の息子・健一が臓器移植手術について問いかけると、中田はまだ中学生の健一に、理想とはかけ離れた日本の医学界の裏側を語って聞かせたのだった。
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3. 恩師と生涯の友を得た大学
あの夜、健一が自分の部屋に引き上げ、さえ子が食事の後片づけを始め、二人だけになってから麻生は中田から重大なヒントを得た。
「どうなの最近は。研究は続けてるの」
「今年初めまでF大学の外科と、新種のアミノ酸で肝がんのマーカーについて共同研究していたんだ。だけど俺が副院長になって雑用が思い切り増えたもんで時間がとれない。せっかく作った院内の研究班も、俺が動かないと機能しないものだから、ストップして、この前みんなF大に渡しちゃった」
「お前、ずっと研究してきたんだから、そりゃあつらいだろう」
麻生はこの南東北救命救急医療センターの前身の病院にくるまで、病気のリハビリで休んだ1年と、外の病院に出ていた2年の計3年間を除いて、ずっとO大学の第2外科医局で過ごし、東浦新太郎教授の研究を肩代わりしたり、医局員の研究を指導していた。
麻生がO大の医局に入ったころ、東浦はまだ30代、アメリカから帰国して講師になったばかりで孤立していた。というのもO大はT大閥で教授も助教授もT大からきており、主だった肝臓研究は彼らが牛耳っていた。
O大プロパーの東浦は便利屋のように使われていたが、留学したアメリカの大学で、肝臓がん手術の新しい術式を提案し、実際に大成功をおさめ、引き止められていた。O大第2外科の教授はそんな東浦を手放すつもりになっていたが、外部の評価を上げたい教授会が強く東浦の帰国を促し、教授がしかたなく呼び戻したところだった。
帰国早々、忙しい医局長に任じられ、東浦は日々の臨床をこなし、寸暇を惜しんで一人黙々と研究に取り組んでいた。
麻生はそんなとき東浦がアメリカで始めた術式について質問しに行った。東浦は顕微鏡からサッと離れ、メモ用紙にていねいに図を描きながら教えてくれた。
「これは医療機器が進歩していたアメリカに行って初めて考えることができたものなんです。肝臓の血流をストップして時間を稼ぐあいだに直接病変部分を除く……。
しかし、本当に大事なのは診断ですよ。診断が進んで外からがんの様子を的確につかめるようになれば、大掛かりな手術は必要なくなるでしょう」
麻生は、いま思えば何の変哲もない東浦のこの言葉に、震えるほど感動した。そして、同期で唯一の友人だった奥井駿男を口説いて、肝がんに有効な腫瘍マーカーの発見と再検証という根気のいる東浦の研究を手伝うようになったのだった。
東浦は丸顔童顔で眼鏡をかけ小太りと、決してスマートではないが、エネルギッシュで豪快な雰囲気を漂わせ、それでいて周りの人間に優しい気配りもした。麻生と奥井はこの東浦の下で診断も外科手術も学んだ。
それまで自信がもてず、このままやっていけるか不安だった臨床が、東浦と奥井と一緒だと、驚くほどスムーズに頭に入るようになった。なにより麻生がうれしかったのは初めて研究の面白さを知ったことだった。しかも、自分が地道な実験や分析、まとめが好きで、ひょっとすると人より優れていると感じられることだった。ラットや犬を使った解剖実験を通じて、実際の外科手術でも大事な勘を養っていき、麻生は自然に研究そのものを自分の天職とも思い込んでいった。
東浦班は人も増え活気にあふれ、研究の範囲も広がり、次々に専門誌に論文を発表するようになっていった。麻生と奥井は疲れを知らず、プライベートでも活動的だった。
(つづく)