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─臓器移植ガイド─ [13] 5. 脳死移植の現実と対峙②

 専門医の素早く的確な手技を見ながら、麻生は自分も移植医を目指した日を思い、ドナーを出すことに抵抗を感じる気持ちを叱りつけてみたが、うまくいかなかった。

 結局、麻生が移植そのものをあいまいにしか理解し切れていないからだった。レシピエントの悲痛な願いは分かるが、臓器を物として取り出すドナーを積極的に認める気はない。しかし、その気持ちに関係なく、移植手術は麻生の日常にごく当たり前のこととして入ってきていた。

 翌金曜朝、いつもどおり出勤した。

「大阪で脳死移植をやりかけています」

 部下の医師が新聞を開いて見せた。学会などの講演で顔を見たことのある関西のSセンター所長の顔写真があった。「彼」のセンターに入った脳死の喘息患者の肝臓を心停止前に摘出し、それを移植しようと九州の国立Q大学医学部第2外科から医師も派遣されている。しかし、大阪府の役人から待ったをかけられて、どうするか足踏みしているというのが昨夕までの状況だった。

 新聞は予想外に大きく扱っていた。和田心臓移植以来、実に25年ぶりに脳死状態の生体からの移植が行われ、それが日本の脳死移植時代の幕開けになるかもしれない、というのが「彼」寄りの論調だ。

 和田心臓移植……、1966年8月8日、札幌医大の和田寿郎教授が、溺れて脳死状態だった青年の心臓を取り出して18歳の少年に移植手術を行った日本最初の脳死移植だった。しかし、
「脳死判定が移植チーム内で行われた」
「判定が10数時間と異常に短かった」
「移植を受けた少年が実は移植は必要なかったのではないかという疑義があった」
 などから、「条件が十分でないのに手術を強行したのではないか」という嫌疑で検察に起訴された。移植を受けた少年も結局拒絶反応によって83日後に亡くなり、日本の脳死移植の道を長く閉ざし、先進医療への不信を招いた。

 麻生は教授の東浦がしゃべっていたのを思い出した。

「俺がアメリカで得た信仰は、──インチキ医者でも歴史を動かすが、歴史はインチキ医者はインチキ医者として評価する──ってことだ。

 移植の草創期には、ルールも確立されていなかったから、世の倫理観を無視して突っ走った医者がいて、それにすべての医者、哲学者、ジャーナリスト、政治家が寄ってたかって制裁を加え、科学的にルールを作り上げていったみたいだ。

 その突っ走った医者が、『この結果を作り出したのは自分だ』と言っても、誰一人耳を貸そうとしなかった。それは──結果は二次的なもので、最初にそのインチキ医者が行ったことは人間として許されないという、本質的な部分と一緒くたにすべきではない──と誰もが知っているからなんだ。

 まあ、銃の問題や政治・外交になるとアメリカも理解できない部分があるが、科学でははっきりしていると思える。そこへいくと日本は和田移植で叩かれたはずなのに、まだ、この問題でまやかしの理屈をこねる奴がいて危なっかしい。

 この前、移植推進の旗振りをしているある私立医大の理事と雑談していたら、『日本の教科書がけしからん』という。何を言うのかと思ったら『日本は台湾や朝鮮、満州で人民を教育し、産業を起こし、良いことをたくさんやったのにすべて占領が悪いと書いている』って言いやがる。

 がっかりした。占領したことと、何をしたかは次元が異なり一緒くたにしちゃいけないってことは、戦後日本人は約束したはずだ。そこもわきまえずに臆面もなく発言する。この理事は移植に対しても平気でまやかしの屁理屈をこねる人間なんだろうと思った。この男の進める移植が信じられなくなったね」

 関西の医療センターの「彼」は、まさに麻生にとって信じられない男だった。ただ、喘息患者を使ったという点で、麻生の胸に真っ先に浮かんだのは、「やられたか」という思いだった。自分が研究しているトルサード・ポアンと結びつけざるを得なかったからだ。しかし、どうもそうではないらしい。重責発作、つまり喘息の発作が重なったことが死因と言うのは疑いがないらしい。二次的に頭を打って意識レベルが悪かったことなども重なっている。

(つづく)


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久保島武志
About 久保島武志 (65 Articles)
1967年出版社勤務。自動車レース専門誌「オートテクニック」でレースを支える人々や若手ドライバーのインタビューを手がけ、風戸裕のレーシングダイアリーを編集。1974年、レース中の事故による裕の死を契機にフリーとなり、早稲田編集企画室に所属。「週刊宝石」「週刊現代」等で様々なリポートに携わる。