「また、どこかでお会いできたらいいですね…」
昨年の大晦日、新宿ミラノ座の閉館、”練馬のアメ横”江古田市場の閉場という2つが「歴史に幕を閉じた」と報じられた。そしてもうひとつ、ニュースになっていないが、日暮里の1軒の駄菓子問屋がひっそりと廃業していた。
1月1日 粉雪
「またどこかでお会いできたらいいですね」(駄菓子問屋の娘)
新宿ミラノ座は1956年(昭和31年)に開業して約60年で閉館。跡地の利用は決まっていないという。
1892年(大正11年)頃から市場が形成されたという江古田市場の歴史は約90年。最盛期には60軒ほどの商店が軒を連ねていたそうだが、昨年末時点で8店舗に減少。閉場を機に4店は廃業、残り4店は他の場所に移転し営業を再開する予定だ。
報道によると、いずれも客の減少と建物の老朽化を理由に営業を終えた。廃業を決定したのは、新宿ミラノ座は運営する東急レクレーションだったのに対して、江古田市場のほうは都だった。レトロな市場は古くさいからと、再開発エリアに指定して商店を追い出したのだ。その話は置いておいて、なにかのテレビ番組で見たが、江古田市場の総菜屋を経営する老婆(たぶん80代)も再開組だというから逞しい。
両者に共通しているのは、最終日に、別れを惜しむ人たちが集まってセレモニーが行われたこと。そのかげで、日暮里の創業63年の駄菓子問屋『村山商店』は誰にも見送られず、12月28日(日)に店を閉めた。
場所は、JR日暮里駅東口前にそびえるステーションガーデンタワーという地上40階建てのタワーマンションの1階。
閉店当日に訪れてみると、店内はほぼ空っぽの状態で、店先には売れ残った駄菓子やオモチャなどがダンボールに乱雑に積んであった。
客は誰もいない。40代女性が1人で後片付けをしていた。聞いてみると、その女性は2代目男性店主の娘さんだった。ここは同店の物件だが、すでに借り主が決まっていて、この日が受け渡し日。ギリギリまで営業を続けて、貸すのだという。娘さんは本業が別にあるため、徹夜明けで朝から撤去作業を手伝っていた。たまたまこのときは、2代目店主はいなかったが、顔を出しているそうだ。
創業当時、周辺は駄菓子問屋が密集する長屋で形成され、駄菓子屋横丁と呼ばれていた。その数は最盛期で100軒ほどあったが、駄菓子は薄利多売の典型で儲けは少ない。他の店はどんどん廃業。やがて再開発で長屋は取り壊され6年前にこのビルが建った。昨年末の段階で、このビルの1階に『村山商店』、2階に『大家商店』の2軒が残るだけになった。村山商店が廃業した今、残っているのは大家商店だけ。
元々、自分の土地で店を構えていた村山商店。地権者だったから、このマンションの店の家賃はない。ただし、上層階の一般居住者よりも、雑費や管理費が割高で、経営をひっぱくしていたそうだ。「これで家賃があったらやっていけなかっただろう」とも娘さんは言った。
廃業の理由は、2代目の気力が失せたからだという。娘さんは、徹夜明けの眠たい目をこすりながら、店先に積まれた『うまいぼう』(1本10円)の袋を見て、「『うまいぼう』は1本売っても利益は1円程度にもならない。私は駄菓子に囲まれて生まれ育ったから、私が跡を継いでもよかったのだけど……」とつぶやいた。本業との掛け持ちは難しいし、店を閉めても生活できる。しかし、儲けが少なくても店を存続させたかった、という気持ちが娘さんにあったのには驚いた。
村山商店なんのセレモニーもなく、63年の歴史に幕を閉じた。入口には『閉店のご挨拶』と題した廃業を伝える貼り紙が1枚あるだけだった。
そこには、父の代から63年間経営していたことと、礼の言葉があるだけで、廃業の理由やそれに至った気持ちは一言も書いてなかった。それが2代目店主の“男の美学”なのだろうか。短い文章だが迫力があって読む人にいろんな思いを想像させる名文だった。
「またどこかでお会いできたらいいですね」と娘さんもイキなことを言って手を振って見送った。
築地市場も移転する。2020年の東京五輪に向けて変わっていく町もあるだろう。だからといってなんの感慨もわかない。駄菓子問屋にも日暮里にもなんの思い入れもない。ただ、貼り紙の力強い文字を見ていると、なぜか気持ちが引き締まった。
弊社のある古いマンションも20年後には取り壊される。その後、建て替えられるだろう。弊社の忘年会で、先輩が「新社屋は池袋の高層マンション!」と煽った。年が明けて、それが現実になる日が一歩近づいた。