─臓器移植ガイド─ [6] 3. 恩師と生涯の友を得た大学②
〜これまでのあらすじ〜
麻生芳人70歳、10年前まで救急医療センターの長だった。麻生が45歳で南東北救急医療センターの前身だった公立病院の副院長になった冬、仙台の学会に行くという旧友の中田秀雄が麻生の家に泊まることになった。実家が東京の胃腸科病院だった中田は、麻生に医学部進学を薦め、麻生の人生を決定づけた親友だった。中田も関西の旧帝大医学部から循環器の医局に入ってアメリカ留学。帰国後ずっと陽の当たる場所を歩んできたが、教授に疎まれ自ら大学を飛び出して以後、民間病院で臨床に当たってきた。そんな中田に、麻生の息子・健一が臓器移植手術について問いかけると、中田はまだ中学生の健一に、理想とはかけ離れた日本の医学界の裏側を語って聞かせたのだった。
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3. 恩師と生涯の友を得た大学
二人が大学に入ったころ、大学紛争の終息直後で、理科系だけのO大学にも荒廃感が漂い、奥井によれば、「周りの同級生がみんな遊ぶことだけを目的として、あらゆる真剣なものに冷笑的だった」。
地方の、決して豊かではない開業医の息子だった奥井は、大学の雰囲気になじめなかったという。それは奥井が妙に正義感が強かったからで、その性格は父親譲りだった。
日赤の医師だった奥井の父親は奥井が生まれた翌年、42歳で徴兵された。軍医として訓練を受け、10数人の医師たちと南方に送られるために長崎で船の便を待っていた。その場所が長崎くんちで有名な諏訪神社のある、立派な山の奥にあった。毎日長崎市立動物園の動物の肉を食べて時の過ぎるのを耐えていたある日、市内が大変なことになっているので救護活動するように要請がきた。なんと、山向こうの町にいたために長崎のあの原爆がわからなかったのだ。だが、翌日から市内に下りて夢中で被爆者の救護活動に当たり、奥井の父親は人が変わってしまった。
いつまでどこで活動していたのか、母にも話さなかった。米軍に追い払われて10月には帰ってきたが、おしゃべりだった人が全く口を利かなくなったという。地獄を見てしまったのだろうか。ふるさとに帰って開業するのだが、貧しい人に金を請求することを家族に禁じ、献身的に地域の人の病気と戦った。
だから奥井はよく麻生にもらした。
「中学の高学年までツギの当たった服や、底が割れた靴をはいていた。昭和36年まで、世の中で医者が一番貧乏な仕事だと思い込んでいた」
その年に国民皆保険がスタートし、収入は格段に増えたが、奥井の父親は被爆によるがんに侵され、6年後には発病、奥井が高校に入る年まで闘病を続け、何も言わずにこの世を去ったという。
「世俗を超越し、淡々と医者をやってた人のようだったけれど、患者には親切で、何かのときに患者のために暴力団員のような男に歯を食いしばって向かってくのを見たことがある。
『弱いものいじめするな』って怒鳴ってて、かっこよかったなあ。もっともそのチンピラも子どものときから知ってる患者だったという話もあるけど。俺、親父のことを思い出すと、いつだって勇気が出た」
そんな奥井が大学にはなじめず、不安と孤独感に悩んでノイローゼになり、
「危なかった」
と麻生に告白した。自殺しかけたらしい。
そんな奥井を救ったのは、やはり奥井と同じ地方から上京してきていた女性で、学生時代に同棲を始めた。それから麻生と知り合ったのだ。奥井は当時OLだった美弥との結婚の仲人を東浦に頼んで快諾された。
それを聞いて麻生も東浦に仲人してもらう約束を取り付けてから、さえ子にプロポーズしたのだった。
麻生もやはりスポーツや遊びに興味がもてずに孤立していたが、周囲に対して鈍感で淡々と授業に出席していた。それほどとっつきにくい雰囲気はなかったせいか、女子の同級生から誘われて他の大学の文化祭にでかけたり、映画に付き合うようなこともあった。やはり誘われて大学3年の春に気まぐれで合唱のクラブに入り、そこで薬学部の新入生だったさえ子と知り合った。
家が福島の薬局だったさえ子は門限の厳しい女子寮に入っていて、ままごとのような付き合いが続いた。麻生が医師の国家試験に合格した年に卒業したさえ子はS県に就職し、麻生はそれが別れになることを覚悟したが、さえ子は大学の近くにアパートを借り、往復3時間もかけて通勤し始め、相変わらず週末に一緒に散歩するような関係が続いていた。
「東浦先生が仲人してくれるって」
それがプロポーズだった。
(つづく)