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─臓器移植ガイド─ [1] 1. 友だちにそそのかされて医者に①

ひと殺し

 ―臓器移植ガイド―

《医者として……》
 倫理観の欠如したおかしな人間がトップに立つことがある。それは日本の医学界における一つの特徴ともなっている。そのトップに認められるべく、善悪の判断もつかない医師たちがトップの意のままに動き、若くして取り返しのつかないおこないをしてしまう例が多く、彼らをどうするかが大きな問題となっている。さらに怖いのは、上昇志向が強い大学病院の外科系医師たちの中に、優れた論文で一定の地位を得たにもかかわらず全く技術が伴わず、患者を次々に殺しておきながら罪悪感が湧かない異常者がいることである。

 前者も含め、そんな医師は一刻も早く免許を取り上げるべきという考えもあるが、医師不足は深刻なのだ。ゆえに彼らを迷える子羊と見なし、医師として適正のない落ちこぼれ医者たちとともに、それでも医者として活かそうと考える医師たちもいる。自らもまた罪を犯した、犯しかけた医師たちが……。


プロローグ

「まだ苦しい? なかなかむくみがとれないからね。でも、モトさんは年よりずっと心臓が丈夫なんだから心配ないですよ。あと1~2日したら、いまの薬で落ち着いてくると思う。そのあとは薬を減らして、病気も忘れていけますよ」

 背筋を伸ばしたモトが、やっと緊張を解いてうなずく。

 漢方を煎じる独特のにおいとともに、心地よい風が通り抜けた。

 庭の白い百日紅(サルスベリ)の花が輝く。

「ミスギさーん。お薬できましたよー」

 さえ子の声が隣の調剤室から響く。聞く人が振り向くような幼い、透き通った響き。

 麻生芳人は、昔からずっとこの場所で医者をやってきたような気がした。

 それは日に何度となく麻生を襲う強い願望だった。

 平成2X年夏。麻生芳人70歳。10年前まで救急医療センターの長だった。

1. 友だちにそそのかされて医者に

 麻生は昭和19年に東京の下町で生まれた。両親はともに東京都の平凡な役人で、共稼ぎが長く、兄はいたが、八つも年が離れていたせいか遊んだ記憶もなく、麻生は目立たない、友達のできない子どもだった。公営アパートの3LDKは、たまに客のある父が一室を書斎兼応接間として使い、兄が別の一室を独占していたため、麻生の勉強机は居間に置かれ、夜は両親と同じ部屋で寝ていた。

 そんな麻生の人生を決めたのは、中田秀雄との出会いだった。地元都立高1年でクラスが同じになった中田が、たまたま帰り道が同じ麻生に声をかけてきた。手塚治虫の漫画の話をするうち、臆病で人見知りが激しかった麻生も安心して口をきくようになっていた。

 中田の家は麻生の住む公団アパートから500メートルしか離れていない胃腸科病院だった。誘われて尋ねた中田専用の部屋は15畳はある洋室で、壁のほとんどに麻生が目の色を変える科学漫画や、図鑑、探検記、写真集、科学者の伝記などが詰まっていた。すぐに裏階段から中田の部屋に遊びに行くのが日課になった。どの本を手にとっても麻生が知らなかった世界が広がり、すぐ引き込まれてソファーで読みふけっていると、中田の母親か妹が紅茶と菓子を運んできてくれた。

 麻生は、嫉妬心が薄いから中田についていけたのではないかと思う。暴君だった兄がいたために、おいしいもの、良いものは兄のもので、小さいころから諦めが早く、物への執着はなかった。中田は、誰とでも仲良くなり、誰でも家に呼んでゲームをしたり、本を貸したりした。次から次に新しい友達が現れたが、恵まれた中田をねたみ、中田が誰とでも仲良くすることに嫉妬して、いろいろなつまらない騒ぎをおこし、結局来なくなった。

 麻生は中田以外の誰とも打ち解けず、常に傍観者だった。単に、家にいるより中田の部屋のほうが本があってずっと面白いから毎日そこで過ごしていた。

 食事どきになると家に帰ったが、夜になるとまた中田の部屋に戻った。たまに別の友達もきていたが、気がつくといつも麻生一人が残った。

 中田は他の友達がいるときは完全な聞き手で、相槌を打ち、ときに感想を言って相手に話を続けさせた。ところが、夜、麻生一人が残るとしゃべりだした。

 なにか重要な発見をした人物、作家、画家、音楽家、人道的運動を成し遂げた人物が、どのような経緯でそこに至るかという話だったが、ふだんからその人物にどんな変わった癖があったか、子供のころ周囲から知能が低いのではないかと心配された理由など、中田の興味は細部に及び、中田自身の推理も入って、それは本よりも面白かった。麻生はその時だけ笑みを浮かべて中田の聞き手を楽しんだ。

 やがて高2になって進路について話すようになると、中田は、「自由で、世界のどこに行っても生きていける」という理由で医者になる思いを話し、麻生にも医者になることを薦めた。

 何の夢も持たず、自分に自信のなかった麻生は冗談のように聞いていたのに、中田は「医者は決して難しい仕事ではない」と説き、ついに父親まで連れてきて、「研究も臨床も面白いし、人の命を救うことができる」と語らせた。麻生が経済面と成績の心配を口にすると、中田は「公立ならば金もかからないし、理数系に強い麻生なら弱点を補えば必ず入れる」とそそのかした。

 麻生は暗示にかけられるようにその気になった。苦手な国語や歴史などの科目も中田に励まされて、なんとか合格ラインに達し、麻生は東京の新設国立O大学医学部に入り、卒業後、第2外科(消化器)の医局に進んだ。
(つづく)

久保島武志
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1967年出版社勤務。自動車レース専門誌「オートテクニック」でレースを支える人々や若手ドライバーのインタビューを手がけ、風戸裕のレーシングダイアリーを編集。1974年、レース中の事故による裕の死を契機にフリーとなり、早稲田編集企画室に所属。「週刊宝石」「週刊現代」等で様々なリポートに携わる。