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─臓器移植ガイド─ [20] 7. 『恩師の為に』を言訳に!②

 ある日女性教師が、一人で病室をのぞき回っている麻生に話しかけてきた。理科を高校で教えているそうで、医学部に行ったのに大学で山歩きに取り憑かれて教師に転進したという。東北の山について、その魅力を話すのだが、彼女はマタギと呼ばれる猟師たちの案内で青森や秋田の冬山まで歩いたことがあるようだった。

 だから油断したことなど一度もなかったのに、山に不慣れな同僚を冬山の入口に連れて行ってアノラックを貸すことになり、それがもとで自分が喘息になったという。

 彼女は突然、ビルマの女性闘士に似た目で麻生を凝視し、つぶやいた。

「山に入るようになったら信仰が欲しくなってね、近所の教会に通ってクリスチャンになったんです。その縁で教会に来る子どもたちを山へ連れて行ったら、みんな自然が大好きになるんで、学校でもやってみたんですよ。そうしたらものの見事に当たって、山だけじゃない、環境とか信仰にも興味を持つ子が大勢できました。山はすごいんです。もし、命があったらまた教え子を連れて山に行きたい。でも、行けなくても悔いはありません」

 麻生のたくらみをすっかり見通しているような、少しいたずらっぽい、すごく馴れ馴れしい、そして限りなく優しい眼差しに、麻生はひどくうろたえた。

 1999年7月、奥井から、やっとHLA同型の30代の女性が見つかり、移植の話はしているという連絡が入った。

 麻生は女性教師の状態を細かくチェックし、ますます発作の間隔が狭まったことを確認した。次の段階として例の新しい抗ヒスタミン剤「R」を投与しても全くおかしくないタイミングを迎えた。

 夜9時、担当医師が看護婦にまさにそれを指示するのが聞こえた。激烈な発作で朦朧とし、鼻水をたらしていた女性教師は急に静かになって眠り出した。全てのデータが安定し、医師も看護婦も安心して引き上げた。

「これからだ」

 麻生は所長室を引き上げ、車で自宅に戻ると、キッチンで一人息をつめて待った。重積発作の患者にその薬は良く効くのだが、セキ中枢を通じてと言うべきか、呼吸中枢や、おそらくその他広範囲な神経にも作用し、心臓の拍動を狂わせ、穏やかなトルサードポアンをもたらす。

 1時間後、麻生の携帯が鳴った。

 脳死になったと思われる女性教師の状態を維持し、F医大に脳死判定を依頼。死後10日目に脳死が確定した。患者の家族に説明し、個人の遺志を尊重してドナーとして登録することを宣言した。

 その日から臓器移植ネットワークは問い合わせに応じるのに追われたという。それから2日後、肝臓は東浦のG大医学部に決まった。奥井が先行して探し出していた30代の女性レシピエントだった。

 心臓についてはO大は逃したが、やはり都内にあるJ大学系列病院の患者に決まった。直ちにG大理事長を通じてJ大理事会に申し込みがされ、G大がドナーそのものを東京まで運び、O大との共同チームで肝移植を済ませた後にJ大学の心臓移植の場に運ぶことで諒解が得られた。

 ドナーを運ぶ医療バスが南東北医療センターに到着すると、麻生たちはあくまでも立会人に過ぎず、麻生も知る奥井の部下の助教授たちが女性教師を無数のチューブにつないだままバスに収容して連れて行くのを見守った。

 9月初めの月曜日、移植が法的に認可されて初の大々的記者発表が行われ、東浦と奥井がテレビに映った。公立と私立の大学医学部が共同で脳死肝移植を行い、さらにそのドナーを脳死状態のまま都内の別の大学に運んで心臓の脳死移植も行うというのがマスコミの関心をよび、テレビがG大の最先端手術室とドナーを運んだ医療バスの映像を流した。

 それからは刻々と脳死肝臓移植手術の状況が発表され。3時間あまりでドナーだけ脳死状態を維持したまま心臓のレシピエントの待つJ大学に運ばれた。

 翌日には再びG大の東浦とO大の奥井が笑顔で現われ、脳死肝移植の成功と良好なレシピエントの状態が報告された。そして、ついでのようにJ大での成功も報じられた。

 その後も連日のように東浦と奥井はマスコミに登場した。師弟であることも好意的にとらえられ、専門家による詳細で冷静な、ときに検証のようなテレビの報道特別番組などでも評価は高く、二人の名声は揺るぎないものとなっていった。
(「7. 『恩師の為に』を言訳に!」終わり。「8. 悔いるべくして悔いる」へつづく)


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久保島武志
About 久保島武志 (65 Articles)
1967年出版社勤務。自動車レース専門誌「オートテクニック」でレースを支える人々や若手ドライバーのインタビューを手がけ、風戸裕のレーシングダイアリーを編集。1974年、レース中の事故による裕の死を契機にフリーとなり、早稲田編集企画室に所属。「週刊宝石」「週刊現代」等で様々なリポートに携わる。