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─臓器移植ガイド─ [19] 7. 『恩師の為に』を言訳に!①

 移植に対しての嫌悪が深まるのに、移植のほうから麻生に迫ってきた。

 ついに麻生はセンターの所長を拝命させられてしまったのだが、それと同時に脳死患者が出た場合の報告の義務づけが法律で定められ、そのための研修も受けさせられた。移植開始が法的に認められる日に向けて動きが急になった。

 そんなとき、定年を数年残して麻生の恩師・東浦新太郎が、公立O大から電車で一駅しか離れていないところの私立G大医学部に新設された移植外科の教授に転身した。実は数年前O大では心臓移植施設の指定を別の教授が表明していた。肝臓と両方の指定を受けることも可能と思われたが、その前から「東浦を迎えたい」とアプローチしてきていたG大の話を東浦が奥井と諮って受諾の意向を固め、O大理事会も説得したという。

麻生は奥井から「それほどG大の力の入れようは迫力があった」と聞いた。財閥系G大の理事会が「金は出すが口は出さない」と書面で東浦に約束したらしい。すでに最高機能を備えていたG大消化器センターに、急きょ東浦の意向を汲んでICU機能を充実させた手術室が増設され、肝臓の移植施設の認可を取得した。

 その後、実際の移植手術に向けた準備のプロジェクトもすぐスタートした。奥井が実際の移植手順を徹底的に仕込んだO大の優秀な外科スタッフと麻酔科スタッフがG大のスタッフとシミュレーションを重ね、拒絶反応抑制対策も10を超える最新の組み合わせが準備された。

 1999年正月末、臓器移植解禁実施まで1ヶ月という夜、麻生は東浦に呼ばれ新幹線と在来線を乗り継いでG大を訪ねた。そこだけ明かりのついた教授室に東浦と奥井が待っていて、すぐに、重厚でいて多くの器械が近未来の雰囲気をかもし出す手術室や人のいない管制室を3人で見てまわった。手術室は広く、ドナーとレシピエントが並んで手術できるという。もちろんここで東浦のG大スタッフと奥井のO大スタッフが共同で移植手術を実施することになる。

 教授室に戻ると東浦が笑いながらロマネコンティの年代ものをグラスについだ。

「やっとここまで来たよ。君たちのおかげだ。ありがとう」
 麻生は東浦がこの場に自分を呼んでくれたことに感動し、何も言えなかった。

「とりあえず乾杯」
 東浦も奥井も、酒を酒とも思わないペースで杯を重ねていく。やっぱり外科医だった。

「あとはドナーだな」
 東浦がつぶやいた言葉が麻生の中でいつまでもこだました。

 胸いっぱいの感動はいつか、東浦のために何か役立ちたいという気持ちに変わり、ムクムクとふくらみ続け、「R」を結び付けて考え始めた。

 50歳に近い女性教師だが、ドナー登録していた。内臓の状態は良好だったが、かかっていた開業医や担ぎ込まれた救急病院医師のでたらめな治療で喘息を悪化させていた。薬剤の乱用で発作が起こると薬剤を投与しても反応が悪く、強心剤を与えて鎮まるのを待つしかなかった。

 麻生はデータを見て、この女性が「R」で脳死状態になるだろうことを確信した。自ら治療チームに加わり、血液を採取するとHLAの型を調べた。

 それからは、考えていたとおりに動いた。奥井をわざわざ東京の自宅近くに訪ね、女性教師のHLA型を伝え、密かに適合する患者を探すように話した。

「救命の現場が長い俺のカンとしか言えないが、この患者は脳死になる可能性がある。今の制度は、脳死患者が出ると臓器移植ネットワークに報告し、そこからHLAなどが知らされ、公平にレシピエントを探すことになる。そのときすでに適合する患者を準備していれば、この患者をドナーにできる確率も高まる。無駄になる可能性もあるが、やってみないか……。東浦先生のためだ」

 はじめ、胡散臭いモノに触れた目をしていたが、東浦の名を聞いて奥井は半信半疑の顔でうなずいた。

 脳死移植解禁となっても奥井は適合する患者は探せなかった。

 何例か関西の病院などで心臓や肝臓の臓器移植が行われた。しかし、マスコミは故意に報道を抑えているとしか思えないほど静かだった。移植を実施した大学病院なども、緊張しているせいか、大げさな発表は控えたようだった。
(つづく)


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About 久保島武志 (65 Articles)
1967年出版社勤務。自動車レース専門誌「オートテクニック」でレースを支える人々や若手ドライバーのインタビューを手がけ、風戸裕のレーシングダイアリーを編集。1974年、レース中の事故による裕の死を契機にフリーとなり、早稲田編集企画室に所属。「週刊宝石」「週刊現代」等で様々なリポートに携わる。