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─臓器移植ガイド─ [2] 1. 友だちにそそのかされて医者に②

ひと殺し

 ―臓器移植ガイド―

《医者として……》
 倫理観の欠如したおかしな人間がトップに立つことがある。それは日本の医学界における一つの特徴ともなっている。そのトップに認められるべく、善悪の判断もつかない医師たちがトップの意のままに動き、若くして取り返しのつかないおこないをしてしまう例が多く、彼らをどうするかが大きな問題となっている。さらに怖いのは、上昇志向が強い大学病院の外科系医師たちの中に、優れた論文で一定の地位を得たにもかかわらず全く技術が伴わず、患者を次々に殺しておきながら罪悪感が湧かない異常者がいることである。

 前者も含め、そんな医師は一刻も早く免許を取り上げるべきという考えもあるが、医師不足は深刻なのだ。ゆえに彼らを迷える子羊と見なし、医師として適正のない落ちこぼれ医者たちとともに、それでも医者として活かそうと考える医師たちもいる。自らもまた罪を犯した、犯しかけた医師たちが……。


1. 友だちにそそのかされて医者に(2)

〜前回までのあらすじ〜
麻生芳人70歳は10年前まで救急医療センターの長だった。東京の下町で生まれ、目立たず、友達のできなかった麻生の人生を決めたのは、高校時代の親友、中田秀雄だった。実家は胃腸科病院。高2になると中田は「自由で、世界のどこに行っても生きていける」という理由で医者になる思いを話し、麻生にも医者になることを薦めた。麻生は暗示にかけられたようにその気になり、東京の新設国立O大学医学部へと進み、卒業後は第2外科(消化器)の医局に進んだ。

 一方の中田は関西の旧帝大医学部に進み、循環器を選び、医局に入ってすぐアメリカに5年も留学し、胸部の画像診断術、PTCA(バルーンによる冠動脈拡張術)やバイパス手術、ステント埋め込みその他、当時の日本より15年は進んでいた治療法をマスターして戻った。

 折りしも日本では心筋梗塞など循環器疾患が死因の1位になりかけていたため、中田は重用されてずっと陽の当たる場所を歩んできたが、それが災いして教授に疎まれ、自ら大学を飛び出すと、以後はずっと東京の外資系民間病院で臨床に当たっている。それでも循環器学会では最年少評議員に推され、医学専門誌の依頼で海外の学会報告を翻訳したり、ときには現地インタビューに顔写真も載って、専門家の間で知名度は高かった。

 父親の胃腸科病院に循環器科もつくって医師を雇い、自らも週に4日は診察し、妹の夫を経営に当たらせ、経済的には豊かだった。

 中田がアメリカから帰国して結婚し子どもができたころ、麻生もさえ子と結婚して健一が生まれアパート住まいをしていた。大学でコンビを組んでいた奥井駿彦の家族と毎週のように中田の家に集まった。中田の両親、ときには妹の家族まで顔を出し、暖かい笑いが絶えなかった。そこは間違いなく麻生にとって故郷と呼べる家だった。息子の健一が実父に抱かれてもなんとも感じなかったのに、中田の父親が健一を抱き上げて「いい子だね」と言ったとき、思わず涙ぐんだ。それはつかの間の平和だった。変わらなかったのは中田だけと思えるくらいで、麻生も奥井も激動の時に入っていった。

 あれも結局は中田の話が発端だったような気がする。麻生は45歳で南東北救急医療センターの前身だった公立病院の副院長になり、冬は寒く夏は暑い町に住むようになっていた。その冬、仙台の学会に行く中田が麻生の家に泊まることになった。

 麻生は病院を早退して新幹線のホームに中田を迎えた。やまびこが冷たい空気を動かして停まり、ドアが開くと中田が真っ先に降り立った。

「やあ」

 スーツケースを引いた中田がニヤッと笑うと麻生は自分が急にくすむように感じた。濃い眉と二重で切れ長の目、高い鼻、うすい唇……。少し長めでカールした灰色の髪に加えて中田の服装が独特の雰囲気をかもし出していた。細かいチェックの入った暖色のスーツ、薄茶のワイシャツと、黄に赤の混ざったネクタイというコンビネーションが、細身のからだに見事にマッチしていた。

 アメリカから帰ってきたときも、デニムやコーデュロイのスーツをさりげなく着るのがさまになってうらやましかったが、結婚して夫人の好みかさらに渋みが加わった。

 麻生は中田とは正反対で一重のやや垂れた目、厚い下唇、平均以下の身長、運動不足でやや出た腹と、地味な目立たない服装しかできなかった。

「いらっしゃい」
「元気そうだね」
「そうでもないよ。こき使われるだけで、消耗していく感じだね」
「そうなの。悪かったかな」
「アッごめん。いまは元気さ」
「さえ子さんは」
「彼女はいつだって絶好調。それよりご無沙汰しっ放しだけど、ご両親はお変わりなく?」
「いま俺は千葉の市川なんだ。あの家には妹夫婦が同居してるんだけど、80近くなっておやじは角が取れた。婿さんと仲が良いっておふくろが喜んでる」
「そうじゃないよ。お前のお父さんは誰でも安心して飛び込んでいけるんだ。お婿さんの肩の力がとれたんだよ」

 10分ほど走り、国道からわき道にそれて、林の中の坂道を登っていると中田が急に車を止めさせ、カバンからライカを取り出して外へ出た。麻生も中田の後をついていった。杉やヒノキ、椎といった大きな木がまばらに立つ林の中で、中田は三脚につけたライカを真上に向けて構えていた。

「ああ、雲か」
「うん。久しぶりに見るきれいな奴だ」

 やわらかい、とてつもなく大きな雲が、どこからか射す一筋の日の光をくわえ込み一箇所だけ燃えていた。

 雲の写真を撮るのが中田の趣味だった。

 関西の大学病院を辞めた当日、病院の屋上で、悪魔の顔のような雨雲とにらめっこして辞める決心をし、研究室にあったカメラとモノクロフィルムでその雲を撮ったのが最初だったという。カメラ雑誌で賞をとって病み付きになり、初めこそ、自腹を切って喫茶店などで展示会を開いたりしていたが、いまや、雲のカメラマンとして名前を知られ、観光地などのある自治体や新聞社から、写真展への出展依頼が一時は引きもきらず、謝礼金でアラスカに撮影旅行にいけた、と聞いた。

「雲は見る人の気持ち次第。自分にもなれば、自分を観察する第三者にもなる」
 中田の持論だった。

「急ぎ足で雨を降らせて消えていく怖い顔の奴もいれば、何をしたいのかはっきりせず見るからに汚れたうとましい広がりにしか見えない奴もいる。これぞ雲らしい生き方と圧倒されるのはやはり夕暮れの西空を茜色に染めて胸を張っている雲だよな。ついつい自分に引き比べるくせがついた」

 15分もジッと同じ場所で撮り続け、中田は納得したショットが撮れたようだった。

「とくに夜の雲っていうのは医者そのものだね。月もない夜に雲を浮かび上がらせるのは世間の光なんだぜ。ほとんどの雲は夜は見えなくなっちゃうし、明るく輝き過ぎるのは逆に胡散くさい。本当に医者らしい医者はとってもきれいな淡い色の雲なんだ」

 一箇所だけきらめいていた雲が、全身深い透明感を湛えるピンクに染まり、木の間越しに、ゆっくりと動いているのだが、
「暮れかかるときの雲はきれいだろ。まだ自分で輝いているみたいに元気だが、徐々に暗くなると己の力の限界を知り覚悟を決めて変わっていく。そんな曇の色に染まった空こそ間違いなく暮れなずむ日本の空なんだ。日本の色そのもの。これは俺の好きな雲だ」
 中田が言うと、麻生も思わず心を打たれ、見惚れた。

 林を外れると市の工業団地が現れ、その少し先がマンションの敷地だった。

(「1. 友だちにそそのかされて医者に」おわり。「2. 脳死臓器移植がやってきた」へつづく)

About 久保島武志 (65 Articles)
1967年出版社勤務。自動車レース専門誌「オートテクニック」でレースを支える人々や若手ドライバーのインタビューを手がけ、風戸裕のレーシングダイアリーを編集。1974年、レース中の事故による裕の死を契機にフリーとなり、早稲田編集企画室に所属。「週刊宝石」「週刊現代」等で様々なリポートに携わる。