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─臓器移植ガイド─ [8] 4. トルサード・ポアン①

 〜これまでのあらすじ〜
 麻生芳人70歳、10年前まで救急医療センターの長だった。麻生が45歳で南東北救急医療センターの前身だった公立病院の副院長になった冬、仙台の学会に出席するという旧友の中田秀雄が麻生の家に泊まることになった。中田は、麻生に医学部進学を薦め、麻生の人生を決定づけた親友だった。実家が東京の胃腸科病院だった中田もアメリカ留学後ずっと陽の当たる場所を歩んできたが、教授に疎まれ自ら大学を飛び出して以後、民間病院で臨床に当たってきた。そんな中田との久々の再会で、麻生はかつて自分が大学の医局で研究に没頭して過ごした日々とその後の数奇な運命を思い返すのだった。

4. トルサード・ポアン

 麻痺は半年でほとんどなくなったが、それからさらに半年かけてトレーニングし直し東京のアパートに戻った。臨床、さらに手術も再開する。東浦自ら麻生の手術を何度か補佐して確認し、O大系列の外科病院にポストを用意してくれた。しばらく臨床だけに専念し、少しずつ第2外科の研究班の指導にも立ち会うようにしていった。

 2年たって奥井が帰国し、助教授に就くと、東浦は麻生を講師に任じ、奥井が最先端医療を、麻生が基礎研究を指導する体制を築いた。

「大学にいて研究をしないのは損だぞ。研究できるのが大学にいる特権なんだから」
 
 麻生は東浦ゆずりの言葉を医局員に説き、研究を奨励し、経過報告をまめに聞いた。それとは別に、奥井にも話を聞き、肝臓移植に少しでも役立つ実行可能なテーマを見つけてはチームを結成し、手分けして実験、解剖、試料づくり、演算などを推進し、そこそこのレベルに仕上げていった。

 東浦に言わせれば、「オリジナリティに乏しいが、目配りの効いた研究」だった。

 奥井や中田との交友を暖めなおすこともでき、活き活きした7年間だった。麻生はずっと大学に残って研究を続けたかった。研究から切り離されることは麻生にとって恐怖だった。けれど3年近いブランクはどうあがいても取り戻すことができず、すでに後輩が育っている以上、これといったホームランのない麻生が研究を指導する名目も消えていた。そのため、さえ子の実家からも遠くない広域南東北救命救急医療センターが設立されるとあって、その前身の病院から医局にスタッフの要請があったのを機に、自分から志願して医局を出た。

 東浦も、「君の将来については任せろ。とりあえず病院管理の勉強をしてこい」。そう言って送り出した。

 医療センターにきてからも、まめな麻生は仕事の合間に研究も続けようとした。いかんせん設備がなくて何も始められなかったが、学会長老で地元F大学の消化器科教授に、自分が暖めていたテーマを話して共同研究をもちかけ、F大学の予算の一部で特殊な分析器や電子顕微鏡、大量のラットを購入することに成功した。F大学出身の医療センター長の全面協力で一室を確保し、手を上げた医師3人と、脂肪肝から肝硬変、肝がんに至るプロセス解明に熱中した。

 しかし、今となってはそれも悔いになるのだが、所長が麻生を買って、徹底して救急医療を教え込んでくれ、麻生も切った張ったの魅力に再びひかれて、自分で麻酔医なみに麻酔を管理しながら手術をこなすようになった。すると、所長は徐々に麻生に任せる仕事を増やし、ついには実質的に麻生の指示でセンターが動くようになっていった。そして、2年後には副所長に任命されてしまった。

 それまでも日々の診療、カンファランス、部長としての雑務などで多忙だったのに、副所長になると何倍にも仕事が増えた。診療各科の医師・婦長たちとの打ち合わせが時間を食う、若いスタッフが個人的に麻生に相談しにくる回数も増えた。さらに地域の病院、医師会との折衝も任されたのだが、これがあきれるほど多くの雑用を生んだ。各種の集まりに顔を出さなければならず、電話で連絡を受けたり意見を求められれば返事をし、調べて答え、そのつど分単位で時間が減っていく。

また、県内数少ない移植コーディネーターを努める医師から強く請われて断りきれず、臓器移植周辺の勉強会にも麻生はテーマを決めて講演してきたが、関心の高い分野だけに、はじめ5~6人だったメンバーがここへきて30人を超え、本腰を入れて準備しなければならなくなった。
(つづく)


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About 久保島武志 (65 Articles)
1967年出版社勤務。自動車レース専門誌「オートテクニック」でレースを支える人々や若手ドライバーのインタビューを手がけ、風戸裕のレーシングダイアリーを編集。1974年、レース中の事故による裕の死を契機にフリーとなり、早稲田編集企画室に所属。「週刊宝石」「週刊現代」等で様々なリポートに携わる。