─臓器移植ガイド─ [21] 8. 悔いるべくして悔いる①
まず奥井から麻生に電話が来た。
「ありがとう。恩に着る。東浦先生がとても喜んでくれて俺も幸せだ」
どこかよそよそしい口調。麻生も言葉短く祝った。
だが、東浦の電話は底抜けに明るかった。
「お前が世話してくれたドナーだったんだって? 奥井が今頃言うから、どうして言わなかったって聞いたら、あいつ、“偶然でも麻生は俺と同じで先生の弟子です”って言いやがる。そんなもんかもしれないな。お前を黒子あつかいするのは忍びないが、ありがとう。なにか? ケガ以外でも、脳死になりそうな状態ってのがあるのか。そんなのを長年の経験でお前が教えてくれたんだって、奥井のやつ、えらく感心してたぞ」
「まぐれに決まってますよ。でもうまくいってよかったですね」
奥井ではないが、東浦の声を聞くと麻生も幸せだった。
それなのに麻生をまず嘔吐が襲った。執務中にドナーとなった女性教師の声が聞こえ、反射的に強い吐き気がこみ上げ、トイレに駆け込むと食べたものを戻した。何も出なくなっても吐き気は収まらず、血圧も200近くまで上がり、緊急に点滴で吐き気を抑えなければならなかった。落ち着いてから内視鏡で検査されたが、異常は見つからなかった。
次いで不眠がおそった。初め、ドナーとなった女性教師が夢に現れ、一方的に話しかけてくる。麻生は夢の中で、彼女にきちんと付き合うことを使命と感じた。意思の力で彼女の言葉に返事をするようにしたのだ。気がつくと朝になっていた。
夢の中で麻生と女性教師はたちまち恋人同士になっていった。眠りにつくと彼女はすぐに現われた。いつもベッドで麻生を見上げ、ビルマの女性闘士のような目をなごませ、麻生にしなやかな手を伸ばしながら、
「今日は何をしてたの」
と聞く。その声はさえ子と対極の、低い、しわがれた音だったが、麻生には甘やかで、強烈な誘惑を伴って聞こえた。麻生の体は痺れ、昂揚し、熱くなって語りだす。それは小学校の臨海学校で拾った猫の思い出だったり、大学で出会ったゲバ棒の学生から逃げ回った思い出だったり、中田と歩いた刑務所の周囲の町並みのことだったりした。およそ恋人に語る内容ではないのだが、
「ふーん」
「そうだったんだ」
と耳元で彼女が相槌を打つと、幸せで、無限に思い浮かぶ思い出を生真面目に話し続けた。そうするうちにやがて麻生は彼女に吸い込まれ、幸せの絶頂で目が覚める。
恥ずかしくてさえ子の顔を見ることができず、「あなたどうしたの」と心配された。
昼間うつらうつらと眠るようになり、そこでも女性教師のささやきを聞いた。恋しくてたまらず、夜家に帰ると自分の部屋で早くから横になった。朝まで彼女と過ごす。反動で昼間何時間も眠るようになった。すると夜の眠りはなかなか訪れなくなる。
馬鹿なことをしていると分かりつつ麻生は睡眠薬に手を出した。そして手術中に手が震え、彼女と医師免許証を秤にかけて「メスを持つべきじゃない」と思った。
さらに神経が弱ったところで麻生は覚醒した。
魅力的で、教え子たちとの長いこれからの時間を楽しみにしていた女性教師。麻生には彼女にその時間を作れたかもしれないのに、ドナーにするために死に追いやった。
「俺が殺した」
(つづく)