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─臓器移植ガイド─ [18] 6. 誰の目にも異常な医者④

 前年の1993年、東京白金のT大医科学研究所病院でも一人の教授が移植施設の指定を得たいがために人の道を外れた行いをしたことが明らかになったというのだ。

 ’91年当時、国の方針で移植を行うことのできる施設を選定することになり、肝移植の候補施設としてその教授が自信を持って立候補を表明した。そのため、T大医科研病院内教授会では’91年10月、別の二人の基礎の教授に依頼して「医科研で移植実施が可能か」調査させた。

 その結果、
 [1]看護婦の欠員が10人(定員78人)で、移植に対応するのは無理。
 [2]集中治療室がない。
 [3]手術室の使用を調整する話し合いが不十分。
 [4]移植チームの医科研病院での肝臓手術の経験が少なすぎる。
 [5]手術部に専任の麻酔医が一人しかいない。
 [6]院内の協力態勢に疑問がある。
 を理由に、
「T大医科研病院での移植は無理」
 との結論を出した。

 [4]に挙げられたこの教授の実績の低さは誰の目にも明らかだった。また、[3]と[6]に如実に現れているようにこの教授は病院でも浮き上がった存在だった。

 だが、移植学会のリーダーを自認していたこの男は、そこから猛烈な悪あがきを始めた。なんとか取り繕って、強引に指定を獲得しようとしたのである。

 まず’93年6月、新聞にこんな記事が書かれてしまった。

「T大医科研人工臓器移植科は、U教授以下10人以上の名前で、日本消化器学会に、すい臓がんに関する治療成績データを論文として提出した。しかし、同じ外科の医局員から『データを改ざんしている』と指摘されあわてて学会から論文を引き上げた。論文は過去10年間に扱った28症例を前期と後期に分けて治療成績を比較し、病変部を切った症例が後期に成績が向上したとしている。前期の4例がみんな1年以内に死亡したのに対して、後期9例では、2年生存率が25.1%で、有意な向上をとげ『長期的な予後改善の可能性も示された』などと結論していた。ところが、現実の後期症例の2年生存率は12.5%。数字を改ざんしたもので、治療成績が向上した事実などなかった。U教授は『医局員の単純ミスで改ざんの意図はなかった』と述べた」

 学内調査で手術の腕を不安視されたことに対する幼稚な抵抗であったことはいうまでもない。さらに、「一看護婦を増やせないために、術後にケアする体制が望めない」と指摘されたことに対して、この男はなんとしてもベッドと看護婦を確保するためにとんでもないことを考えた。

 当事、病院内ではこの男の冷酷なふるまいが噂され、誰もが眉をひそめていたのに、誰も止めないところが当病院の体質であり、情けない医学界の限界だった。というのも、この教授の担当科には相当数の末期がんの患者たちが入院していたが、彼らを追い出したのである。医局員は嫌がってはっきり口にしないため、教授自らが患者に、「これ以上診ない。退院しろ」と引導を渡した。

 教授のその言葉を死の宣告と受け止めた患者もいた。中には転院先を決めずに追い出され、猛烈な恨みからこの教授を呪いながら死んだ患者もいた。

 追い出された患者たちは、告訴を検討し、ついには「がん患者が病院から追われるとき」と題する本を出版した。その中で麻生が胸を突かれた部分は、患者が死にゆく無念の中で「鬼に殺された」と叫んでいる場面だった。

 まさに教授のこの行いは、殺人に他ならなかった。それでいて、教授の目的は遂げられなかったことになる。

 ところで、麻生は奥井から聞かされたのだが、知り合いの新聞記者が後に偶然この教授のチームの医師に会って「残念でしたね」と声をかけると、U教授と一緒にデータ改ざんや患者追い出しをやったはずなのに「指定施設から外されて、どんなに我々が悔しかったか……」と涙声で話すのでビックリしたという。

 新聞記者は、「反省ゼロ。エリート意識むき出しで『不当な扱いを受けた』との感覚だもんだから、宇宙人と話している気分になった」と言ったという。
(「6. 誰の目にも異常な医者」おわり。「7. 『恩師の為に』を言訳に!」へつづく)


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About 久保島武志 (65 Articles)
1967年出版社勤務。自動車レース専門誌「オートテクニック」でレースを支える人々や若手ドライバーのインタビューを手がけ、風戸裕のレーシングダイアリーを編集。1974年、レース中の事故による裕の死を契機にフリーとなり、早稲田編集企画室に所属。「週刊宝石」「週刊現代」等で様々なリポートに携わる。