─臓器移植ガイド─ [26] 10. 終章 それでも医者を続ける
麻生はとらわれ続けた。何もしないことがあり得ないという思いに……。その強い思いで白昼、瞬間的に体が落下する感覚に襲われるようになった。耐え切れず、とうとう今までの全てをパソコンで記し、プリントアウトして中田に郵送した。
手紙を受け取ったというメールをよこしてから約ひと月、中田は何も言ってこなかったが、20XX年10月、中田はまた仙台の学会に出るので麻生の家に泊まると連絡してきた。
夜9時すぎに中田を出迎えた。以前と同じ山間の空き地で「とめてくれ」と中田。
「もう一度お前の口から話を聞かせてくれ」
暗い車の中で麻生は話し始めた。
「喘息の薬で或る病状の人が殺せるとわかった。東浦先生が私学に移って移植を、しかも奥井と一緒にやると知って、彼らの役に立ちたかった。だから喘息の女性教師を死なせてドナーにしようと考えた。本当にうまくいくか確かめたい気持ちもあったと思う。彼女は本当に脳死になった。そして移植は成功した。
けれどすぐ女性教師が夢に現れるようになった。俺を責めるんじゃない。俺のことを話せって言う。好きになってずっと夢で抱いた。俺は今になって普通の医者としての医者らしい日常がたまらなく愛しい。だけど、このままでいいはずがないと思うようになった。
俺には倫理観というものがなかった。これは環境や教育でなんとかなるものじゃない。おそらく、倫理を理解する脳神経が俺には欠如しているんだ。
俺は倫理観と無縁の人格なんだろう。お前にそそのかされて医者になったけれど、申し訳ない。俺は医者になるべきじゃなかった。教えてくれ、俺はどうしたらいい」
中田は口を挟まずに最後まで聞いた。
中田がフロントガラスごしに空を見上げ、カバンからライカと三脚を取り出した。
「外へ出ないか」
空は澄んでいた。月はなく星が一面にきらめき、その先の宇宙の無限を教えていた。
「あの雲。すごいよな」
ライカを覗き込みながら中田がつぶやいた。麻生が気づかなかっただけなのだが、南西の空に忽然と丸い雲が湧いていた。何が凄いのか麻生は雲を凝視した。黒い塊だったのが、少しずつ北東に移動しながら輝き始めた。町の明かりを受けてゆっくりゆっくりと白く大きくふくらんでいくのだ。
「ほら、星が張りついて見える」
「えっ」
雲に隠れる瞬間の星を言っているのだと分かった。
中田に譲られてライカを覗き込み、その明るさに驚かされた。雲の端は一番明るいが厚みの薄いところもあり、星が雲に飲み込まれながら雲を通して光り続ける一瞬、まさに雲に星が張り付いているようだった。
「こんな星が写せるのか」
「雲だけだよ。もしかしたら夜の雲の微妙な輪郭に星と分かる影がうつるかもしれない」
「以前、夜の雲が医者としての俺自身にみえることがあるって話したよな。夜の雲が見えるのは他人様の光のお蔭、医者だって医者らしいことをして、世間に映してもらう」
中田は無言でシャッターを押し続けた。
「実は俺ここ3年、Y病院(アメリカの宗教法人が経営する病院)の倫理委員をしてるんだが、あんなとこでも医者不足なんだ。リピーターって知ってるだろ。医療訴訟につながる技術的な失敗を重ねて起こす医者。みんな外科医だったけど、実際に話してみてきちんと欠陥を指摘すると、そのことは直せるんだが、また新しい種類の失敗をする。昔なら絶対に外科は続けさせられない奴らさ。
でも医者が足りないから使い続けてるんだ。『評判は悪くない』って経営陣がかばうし、本人も元気でさ。危なっかしくてとても見続けたくないから倫理委員をやめさせてもらったけどね」
「麻生は後から夢で抱くような人を移植に差し出しちゃったんだ。哀しいよな。
だけどいまの麻生は医者らしいことが何より好きで、十分医者らしいことをしてるんだよなあ。
その女の先生に申し訳ない気持ちがあるんだから、もう過ちを犯すことはないはずだろ。それなら死ぬまで医者らしく、人のためになることを続けていくことができるんじゃないか。いまは真っ黒でも、いつかは光をあててもらえるかもしれない」
「俺はひとを殺したんだぜ」
「ひとごろしでもお前は医者らしいことができる医者だ。それだけ悔いて苦しめばもうひとごろしはしないだろ。これから何人殺すかわかったもんじゃない医者に比べれば絶対的にマシってもんだ。冗談じゃなく医者が足りないんだ。お前は必要だと思う。
お前は医者らしくやっていけると思う。
俺も医者らしいことをして俺の患者さんのために生きていこうって思っているんだ。
それでいこうや。これからも。なあ」
中田のため息。
「それでいいんだろうか」
そう思いつつ麻生はうなずいた。
丸い雲が急速に明るさを失い、空に溶ける瞬間、その色を麻生は美しいと感じた。
(おわり)