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─臓器移植ガイド─ [10] 4. トルサード・ポアン③

 〜これまでのあらすじ〜
 麻生芳人70歳、10年前まで救急医療センターの長だった。麻生が45歳で南東北救急医療センターの前身だった公立病院の副院長になった冬、仙台の学会に出席するという旧友の中田秀雄が麻生の家に泊まることになった。中田は、麻生に医学部進学を薦め、麻生の人生を決定づけた親友だった。実家が東京の胃腸科病院だった中田もアメリカ留学後ずっと陽の当たる場所を歩んできたが、教授に疎まれ自ら大学を飛び出して以後、民間病院で臨床に当たってきた。そんな中田との久々の再会で、麻生はかつて自分が大学の医局で研究に没頭して過ごした日々とその後の数奇な運命を思い返すのだった。

4. トルサード・ポアン

 専門医は説明した。

「それなら不整脈を予防する措置を講ずればよいと思うが、いつ起こるかわからず、24時間心電計を用いても診断さえ難しい。そのうえ、これは、という効果のある薬がないのが不整脈だ。そもそも抗不整脈薬を与えると、薬の副作用で悪性の不整脈が起こってしまうことも少なくない」

 結局原因はわからず、遺族にはありのままに説明するしかなかった。麻生と担当医がその任に当たり、家族は納得してくれた。

 気管支喘息はアレルギー体質の人に起こるだけに、薬剤に対する異常な反応は起こりやすく、救急医療の分野で珍しくないことを麻生は初めて認識した。

 実は3ヵ月前にも気管支喘息で亡くなった男性がいた。最初に運び込まれた病院で、激しい発作をおさえるためにアミノフィリンを注射した直後心臓が停止したという。

 センターに着いたときには蘇生措置も間に合わなかった。しかし、診断は重積発作、つまり連続しておこる激しい咳き込みによるショック死とされた。長期間、副腎皮質ホルモンや数種の薬剤を投与され続けていて、薬に対する抵抗性が生まれ、発作時に投薬しても即効性が得られず、体力の消耗が著しかったために、続発する発作のショックで心臓麻痺がおきたという説明が通るからと担当医は説明していた。もちろん本当のことはわからない。ただ、薬による死亡とすると、異状死として検視を仰がねばならず、その他いろいろ面倒くさいことが多くて重積発作にするのだという。

 麻生は中田にトルサード・ポアンの話を聞いてから気管支喘息の治療薬に興味を抱いていった。センターのコンピュータでいままでに入院して死亡した喘息患者のカルテを検討すると、発作時に交通事故や転倒による頭部打撲などを起こした二次的な原因による死を除き、何割かが高齢も加わり衰弱から心不全に至っているが、薬剤との因果関係が疑われる症例も少なくなかった。

 もともとセンターには、かなり悪化してから運ばれる患者が多いが、長年の薬剤の使用で一切の薬が効かなくなって死ぬ人もいれば、薬剤そのものが決定的なダメージを与えて死に至った人もいるはずと麻生は推測した。

 アミノフィリンの大量投与の危険性は度重なる事故によって周知されているにもかかわらず、何人かに一人は過敏症で、血中濃度が意味をなさないところが気管支喘息の怖さであった。そこに、さらに、抗アレルギー薬である抗ヒスタミン剤の副作用も加わるのだ。

 麻生は気管支喘息および不整脈と薬剤の関係、とくに抗ヒスタミン薬と抗不整脈薬の情報収集に熱中していった。あまりにも漠然としていて専門医に聞くこともためらわれ、一人でメーカーが発表した薬剤開発報告をそろえ、日本での治験段階の詳細、副作用報告、救急医療学会に発表された症例などをチェックしていった。抗ヒスタミン薬は粘液の分泌を抑えるため喘息には用いるべきではないとする意見さえ見られる。だが、多種多様な抗ヒスタミン薬が発売され、それぞれ微妙に作用が異なっていた。

驚いたのは不整脈治療の医療水準だった。ガイドラインが作れるほど信頼できる薬剤はなく、現在でこそ電気ショックや、血管内視鏡による不整脈巣の焼切りなどもあるが、当時は一般に使われている薬剤すら、使用したほうが発作が少ないという証拠さえなかった。むしろ副作用による悪影響のほうが大きいと考えられる薬剤もあり、一般開業医に対して、「治療しないことが最善の治療」とアドバイズする専門医さえ少なくなかった。
(つづく)


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About 久保島武志 (65 Articles)
1967年出版社勤務。自動車レース専門誌「オートテクニック」でレースを支える人々や若手ドライバーのインタビューを手がけ、風戸裕のレーシングダイアリーを編集。1974年、レース中の事故による裕の死を契機にフリーとなり、早稲田編集企画室に所属。「週刊宝石」「週刊現代」等で様々なリポートに携わる。