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突然子育てエッセイ──いつか過ぎ去る「送り迎え」の日々

 “送り迎え”というのは小学生以下の子供を持つ親にとって、生活の主要なテーマのひとつであろう。

「もうひとりで行かせればいいだろう」

 娘を通わせたバレエのレッスン場が遠方に変わってしまい、日曜日のたびに送って行くのが大変だという妻を相手に、何度そんな言葉を投げかけたことか。それでも妻に言わせれば、ひとりで行かせるのはもしものことを考えるとためらわれ、仕事をかかえていても行かないわけにはいかないということなのだ。

 はるばる千葉まで通っている曜日のレッスンには、なぜか私は送り迎えに行かせてもらえない。近くに時間をつぶせる場所がなく、レッスン場で待っているしかないのだが、私の立ち居振る舞いや言動が恥ずかしくて他の母親に会わせられないのだそうだ。父親であるということは、このような情けない扱いに耐えることでもある。

 ありがたいことに、土曜日の中目黒の方は、レッスン場に顔を出さなくてもすむため、私も送り迎えを許されていた。

 中目黒という街には、それまであまり行く機会がなかった。4月になると桜の名所になる目黒川沿いに並ぶ店で、1時間半のレッスンを待つ間に本を読んで過ごすことが多かった。最近になって、コーヒー豆が200グラム500円ちょっとという、お買い得な店も発見した。その店で、子供のころに家族がよく買ってくれた懐かしいクッキー缶を発見したのは今日のことだ。

 その今日の送り迎えは、私は小4の娘の後ろを少し離れてついていった。これまでひとりでレッスンに行かせることを頑に拒んでいた妻が、「そろそろいいかもね」と言いだし、試しに娘を先に行かせてみることになったのだ。

 前をスタスタ歩いて行く娘は、ときどき後ろを振り返るけれどその足取りに迷いはない。ひとりで電車に乗るくらいとっくにできる。それはもう分かっていたのだ。各駅停車しか止まらない駅から発車する往きは大して問題ない。問題は急行と各駅停車の電車が混在して出発する帰りだったが、娘はしっかりと、「渋谷からは各駅」の電光掲示板をチェックしてから電車に乗り込んだようだ。

 家の近くの駅で降りた娘の後ろ姿をみて、ふっと寂しい気持ちになる。あんなに送り迎えがわずらわしいと思っていたのに、もうすぐ必要なくなることが分かってくると、送り迎えも幸せな時間だったと思う。

 娘のレッスンのおかげで中目黒のいくつかの店にも入れたし、川沿いの桜も見れた。ひょっとしてこの街に連れてきてもらっていたのは、私のほうだったかもしれないな、と思う。

「パパー、かき氷食べて行こうよ」

 振り返った娘からそんなリクエストを受けて、嬉しくなる。何日か前におなかがゆるくなっていたけど、もういいよね。送り迎えがなくても、もう行けるかもしれないけど、やっぱり時々はついて行っていいかな。手をつないではくれなくても、まだ一緒にとなり街を歩いてみたいから。

追記:この短いエッセイは、夏のあいだに書いてあったものだが、秋になるまでに日曜日のレッスンはやめてしまい、土曜日もすっかりひとりで行けるようになってしまった。読み返すと感傷めいた甘い文章で気恥ずかしいが、過ぎ去る日々の連続である子育ての記録として、掲載しておくことにする。

About 俵はるぞう (9 Articles)
あちこちの媒体に執筆する謎のフリーライター。このペンネームは本ブログのための仮の姿だという噂も。