移民都市・深圳をゆく その7「経済特区初期に人々が移り住んできた古い街並み」
前回は古くからある深圳の繁華街・東門を取り上げたが、今回はそこに隣接する、経済特区初期に深圳に移ってきた人々が住み始めた地域をご紹介する。経済特区として発展を始めたころの深圳人たちの生活環境はどのようなものだったのか、ここはそれが垣間見られる場所でもある。
かつては客家人が多く住んでいた場所が、移民たちの居住地に
深圳最大の繁華街である東門から車通りを隔てた東側には生鮮食品を扱う市場があり、さらにその東側に、まさに迷路を思わせるような細い路地が入り組んだ住宅エリアがある。
ここは、経済特区が制定される以前は客家人が多く住んでいたエリアで、このエリアの西側に深い堀があり、堀のことを客家語で「圳」ということから、この地が深圳と呼ばれるようになったのだという。
ちなみに客家人というのは、かつては中国王朝の都が置かれて栄えていた黄河中下流域の「中原」に住んでいた人たちで、その後、戦乱を逃れて南方に移住し、その地に定住していった人たちのことを指す。以前から現地に住んでいた人たちからしてみたら彼らはよそ者であることから「客家」と呼ばれるようになったとされている。
客家人は広東省東部とその隣の福建省西部に多く住んでいるが、広東省南部や西部、そしてその隣の広西チワン族自治区などにも散らばっている。というわけで、広東省南部にある深圳にも、古くから客家人が多く住んでいたわけである。そのため、深圳で話されている広東語には客家語の単語が混じっていたりする。
話を元に戻すと、その後、深圳に経済特区が設置されたことにより、外部から多くの人たちが深圳に移り住んできた。当初は香港との出入り口となっている羅湖口岸(イミグレ)から東門にかけてが都市開発の中心地であったため、移住者たちはその近くにあるこの地域に住むようになっていった。
狭い路地を挟んで6〜7階建ての鉄筋アパートが並び、路地を挟まないアパートの隙間は数十センチほどしかない。そして、スーパーなどない当時、この狭い路地には住民たちに食料や雑貨を売る商店が並ぶようになった。
貧しいエリアで、住環境がいいとはお世辞にもいえないが、それでも路地を歩いていると、繁華街とはまた違った活気や、移民たちが肩を寄せあって暮らしている息吹が感じられる。おそらく経済特区初期の頃も、同じように活気のある場所だったのではないかと思われる。
ここは観光客が訪れることもなく、深圳に住む日本人などはその存在すら知らず、深圳が発展してから移り住んできた中国人でさえまず来ることがない場所ではあるが、こういった場所を歩いていると、なぜかウキウキしてくるのである。