風戸裕の短すぎた生涯[38]最終章 「父子、その生き方」④ 2016/04/01 その後、筆者が「筆者自身の認識は思い込みに近いもので、別の視点がある」ことに気づくまでには長い時間がかかった。感情的に声を上げることが、充足を生むどころか、苦い悔いを生み出すことを私自身体験し、風戸の言う考え方こそ、彼 [...続きを読む]
風戸裕の短すぎた生涯[35]最終章 「父子、その生き方」① 2016/02/24 裕がCAN-AMに出場している1971年(昭19)8月19日、ニクソンショックの折、風戸は裕に書き送った手紙に記している。 《裕君 日本は8月15日、ニクソン大統領の「緊急ドル防衛対策」発表により、大変な経済問題に当面 [...続きを読む]
風戸裕の短すぎた生涯[29]第8章 「電顕輸出に成功 世界シェア30%」③ 2015/12/18 いつか司令官になっていた風戸の海外出張は日本電子が上場した’62年、昭和37年から始まった。すでに海外支社はアメリカ、ヨーロッパ、ソ連にできており、やがて出張は年6回に及んだ。支社の設立目的は市場開拓、売り込み強化、代 [...続きを読む]
風戸裕の短すぎた生涯[28]第8章 「電顕輸出に成功 世界シェア30%」② 2015/12/09 1955年(昭30)5月、高橋はやっとトリヤを日本へ連れてくることができた。 【登場人物】 風戸 裕=フジで事故死したレーサー。 風戸健二=その父。日本電子創業社長。 トリヤ教授は多忙なスケジュールを精力的にこなし、 [...続きを読む]
風戸裕の短すぎた生涯[27]第8章 「電顕輸出に成功 世界シェア30%」① 2015/11/29 1955年4月にツールーズで開催されたCNRS(フランス国立研究機構)主催の国際シンポジウム「電子光学における最近の技術的進歩」は日本の電子顕微鏡の世界的評価を不動のものとし、日本電子の世界進出を決定づけたシンポジウム [...続きを読む]
風戸裕の短すぎた生涯[5]第2章 「よし、電子顕微鏡でいこう」② 2015/01/30 顕微鏡はできた。次はこれを売っていかなければならない。早速、細菌・金属・粉体・繊維などの写真を撮影した。それを持って大学や研究所を回った。強い興味を示してくれるところもあって、風戸はエネルギッシュに動き回った。トラコー [...続きを読む]