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風戸裕の短すぎた生涯[38]最終章 「父子、その生き方」④

 その後、筆者が「筆者自身の認識は思い込みに近いもので、別の視点がある」ことに気づくまでには長い時間がかかった。感情的に声を上げることが、充足を生むどころか、苦い悔いを生み出すことを私自身体験し、風戸の言う考え方こそ、彼の生き方にふさわしいと思うに至った。それに、筆者が知りたかったのは、誰かを責めることではなく、愛しいと思う、風戸と裕、父子の「生き方」だった。 

【登場人物】
風戸 裕=フジで事故死したレーサー。
風戸健二=その父。日本電子創業社長。

 日本電子が現在も優れた企業であり続けているのは言うまでもない。風戸は相談役としてずっと大事にされ続けてきた。1969年に風戸の寄付によってスタートした同社の「風戸研究奨励会」はいまも若い研究者に奨学金ほかを提供し続け、電子顕微鏡や関連装置を用いた研究の発展に寄与していると聞く。

 裕の親友の一人、小田守は’73年になると「まだ学生だったのに会社を創り、テレビでもしっかり発言し、由美子さんという人もいて、僕らと比べると随分いろんなことを急いでやっている気がした」。特に風戸が日本のレース界代表として深夜のテレビ番組に出て、いい感じでしゃべっているので感心したという。オイルショックの波で日本のレースは荒れていたが、小田は、「風戸は決してそんな日本のレースをヨーロッパと比較しなかった。その代わり積極的に発言して日本のレースも背負っていこうとしているようだった」と。

 山梨信輔の家は富士スピードウェイの近くで、裕はよくフィアンセの由美子と泊まっては夜遅くまで話をした。風戸はいつも日本のレース界全体のことを世界的な視点から考えていた。区切りがついたら、勉強して政治家になる明確な意志も持っていた。

「区切りというのは日本人として初めてF1に乗ることだが、自信を持っていた。政治家になる点でも可能性は高かったのではないか。『僕は政治家になって、もっと世の中にレースが認知されるようにバックアップするから』と言っていた」と山梨。

 マネージャーの志賀正人は、「やっとヨーロッパも国内も精一杯やれる体制が出来上がったね」と、’74年の初め、裕と喜び合ったと言う。滋賀に熱く語ったのも、レース界全体のこと。

「せっかく出来上がろうとしている日本のレース界なんだから、俺たちの時代の者がさらに育て、定着させるためにがんばらなければ」と言っていたという。

 裕は本当にレース界全体のことをいつも考えていた。

 裕の富士の活動をバックアップした山梨信輔たちの「ノバ・エンジニアリング」は、裕のシンボルだった不死鳥から、「チーム・フェニックス」を結成。藤田直弘をドライバーに迎え、富士GCで活躍した。’76年夏、チームのマシンに新人だった中嶋悟を乗せ、その後F1に乗るまでに飛躍するきっかけを作ったのも彼らだった。

 山梨たちが別の方面に転進した後、風戸健二の願いに応えて「ノバ・エンジニアリング」の名を継いで新たな会社を立ち上げたのは、裕のレースを終始支え続けた猪瀬良一と仲間たちだった。猪瀬のノバは戦闘力の高いレーシングカーを供給し続けるばかりか、優秀な選手を育て、数々のレースシリーズで優勝するなど日本のレース界に大きな足跡を残し続けている。

 裕は死なず。日本のレース界に生き続けている。

 筆者と話をしていたとき、風戸はいつも明るい声で話をしてくれた。しかし、高松宮に社長退任後の報告に上がったかを聞いたとき、「いや、上がりません」と答えた声は、トーンが急に下がったようだった。思わず顔を見直し、風戸の遠くを見る目に出会うと、私は既視感にとらわれた。

 裕が、事故前日に「強さかなー」と言ったときの目だ。裕自身、言葉に表しながら、これからも出会う危機を乗り切れるか分からないことを悟っていたような目。筆者は風戸の脳裏にそれに近い思いが去来していることを感じた。
(つづく)

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久保島武志
About 久保島武志 (65 Articles)
1967年出版社勤務。自動車レース専門誌「オートテクニック」でレースを支える人々や若手ドライバーのインタビューを手がけ、風戸裕のレーシングダイアリーを編集。1974年、レース中の事故による裕の死を契機にフリーとなり、早稲田編集企画室に所属。「週刊宝石」「週刊現代」等で様々なリポートに携わる。