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風戸裕の短すぎた生涯[35]最終章 「父子、その生き方」①

 裕がCAN-AMに出場している1971年(昭19)8月19日、ニクソンショックの折、風戸は裕に書き送った手紙に記している。

《裕君 日本は8月15日、ニクソン大統領の「緊急ドル防衛対策」発表により、大変な経済問題に当面し、今、テンヤワンヤで手の打ち様もないと云う状態です。株も、16日、17日と大暴落して、日本電子も2日間で170円下落し、ソニーなどは575円と輸出の多い株は軒並み売られて、株価対策の面でも利益計画維持の面でも、非常に難しい状態に直面し、どの会社も必死で対策を検討して居ります。日本電子も、常務会、取締役会、部門長会と、一日中その影響するところを計算し、その対策を検討し続けました。円の切り上げ……即ち外国からの入金が、10~15%少なくなります……をそのまま計算するならば、どうしても数字が出て来ないことになります。これから生きた経営で努力、工夫してこの難問題を乗り越えねばなりません。これが経営者に課せられた責任です。この責任を果たし得ない者は、経営者の座から降りなければなりません》

【登場人物】
風戸 裕=フジで事故死したレーサー。
風戸健二=その父。日本電子創業社長。

 世界中にくまなく進出し、設備投資を大胆に進めていた日本電子にとって、ニクソン(ドル)ショックは非常に手ごわい事件だった。しかし、風戸にとってはいくつもくぐり抜けてきた経営の危機に比べれば少しも恐れるに足りないものだった。全社員一丸となって努力し、銀行が暖かい目で見てくれる限り絶対に耐え抜けるという確信があった。日を追うにつれて業績は悪化していったが、それでも風戸は信じていた。

 だが、信頼していた人間の裏切りや、会社の力を奪うことを意図した何者かによる組合操作など、風戸が想像することさえできなかった事態が次々と起こった。原因は他にもいろいろ指摘されているが、主にドルに関する通貨対策のエキスパートがいなかったことがたたり、経営は破綻し、銀行ほかの融資も限度を超えた。日本電子と同じ条件だったいくつかの企業の中には、いち早く手を打って危機を乗り越えたところもある。日本電子は経営に失敗した。

 銀行は救済の手を差し伸べる条件として風戸の退任を求めてきた。トップに風戸のいない日本電子は個性を失い、作る電子顕微鏡もそれまでとは別物となる。生きながらえることはできても、冒険心は殺がれ、いままでのような業界の先頭を走るJOELは死ぬ。

 だが、銀行が経営を肩代わりしてくれなければ会社はつぶれ、確実に社員が路頭に迷う……。それより何より、世界中の日本電子の電子顕微鏡ユーザーはどうなってしまうのか。戦後始めた新たな戦いに勝利しながら、その末路を汚すことはできない。

 風戸は裕への手紙に書いたように、潔く経営者の座を明け渡し、相談役に退いた。さらにメインバンクの求めに応じて、金額にすれば数十億円という自分の持ち株を無償で日本電子に提供したのである。ちなみに4人の専務も平取締役に降格されていたが、やはり持ち株を無償譲渡した。それを関係各社に買ってもらい、会社再建に供するために。

 フリーの雑誌記者となって、新しい環境に適応するまでに時間がかかり、筆者が風戸健二に話を聞き始めたのは、裕の死と風戸の退任から5年ほどたっていた。その間に、巡り会った経営評論家の三鬼陽之助から、風戸のこの処し方について話を聞いたのが忘れられない。

 三鬼は風戸の熱烈なファンだったようで、風戸の名を聞くと、「あっ」と声を上げるや電話を引き寄せ、そらでダイヤルを回した。それが風戸の自宅で、誰かと時候の挨拶をしたかと思うと突然私に受話器を渡した。まだ話を聞く前で、電話の向こうの瑞枝に私はしどろもどろで挨拶するしかなかった。

 三鬼は風戸の経営失敗の要因についても考えを持ちながら、風戸たちの持ち株の無償譲渡には心から感激したという。

「ここまで『私』を捨てて会社のために尽くした経営陣は稀有な存在だった。初対面のときから好きだった風戸に、『経営は結果なり』が信条の私は、風戸が社長退任後、彼に電話もできないのが心苦しかった。だが、ちょうどロッキード事件で人間不信に陥っていたときだ。新聞各誌が風戸たちの行いを『美挙』として報じているのを見て、うれしかった」と。

 その決意をあと押ししたのは裕の魂だったと風戸。

「信仰、覚悟の深さ、潔さ、そして他者を思う気持ちの強さを感じさせる裕の魂……。私はといえば、信念一筋にやってきてはみたものの、振り返ってみると、まことに至らない限りだった。人様には決して劣ることのない奮励努力こそしたが、それは自分の意志と知恵のみに頼ってのものだった。神の意志をうかがわねばならぬことに気がつかなかった。私は裕の死によってこのことを教えられた……」

 風戸健二は、裕が生まれた年に再度ゼロから起こした自分の会社社長の座から、裕が死んだ昭和49年度を最後に、経営に発言しない相談役に退いた。裕の誕生とともに始まった風戸の日本電子は、25年……、裕の戦いの終わりをもって終焉を迎えたのである。
(つづく)

久保島武志
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1967年出版社勤務。自動車レース専門誌「オートテクニック」でレースを支える人々や若手ドライバーのインタビューを手がけ、風戸裕のレーシングダイアリーを編集。1974年、レース中の事故による裕の死を契機にフリーとなり、早稲田編集企画室に所属。「週刊宝石」「週刊現代」等で様々なリポートに携わる。