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魔都上海を巡る その15「古ビルや兵どもが夢の跡──租界時代の建物たち」

 前回の最後に「(次は)最終回の前編」と書いたが、2回に分けて書くほどネタがないことが判明し(汗)、15回目を迎えた「魔都上海を巡る」は今回が最終回となる。

 上海には、かつての租界時代に建てられた建物が今も数多く残っている。オフィスビル、商業ビル、マンション、庭付き高級一戸建て住宅、そして長屋街。どれも古き良き“老上海”の面影を彷彿とさせるものばかりである。最終回の今回は、そんな上海の街並みに残る租界時代の建物たちをご紹介しようと思う。

 上海の租界時代については当コラムのその2「発展の源『租界』」、長屋街についてはその9「上海人の心の故郷『弄堂』」をご覧になっていただきたい。

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上海大廈。戦後は国民政府に接収され、現在はホテルになっている。かつては外国の国家元首なども宿泊した

 まずは、外灘(バンド)の北側、蘇州河にかかる外白渡橋を渡ってすぐのところにある上海大廈(“大廈”はビルという意味)。1934年に竣工した外国人用ホテル兼マンションで、当時は英語で「ブロードウェイ・マンション」などというカッコいい名前がついていた。資料によると「上海アールデコを代表する建物の一つ」らしく、たしかに近くから見ると外装は古びているが、遠目からだと今見てもモダンな感じの外観で、シルエットが美しい。
 国際共同租界の中にある地上21階建てのこのビルは、イギリスの不動産会社によって4年の歳月をかけて建てられ、その後、上海恒産という日本の国策企業に買い取られ、日本軍や児玉誉士夫による“児玉機関”などに利用されてきた。租界時代に多くの日本人が住んでいたエリアからも近い。

楊氏公寓。建物左側の通りは雁湯路で、両脇には小洒落たレストランやブティックが並んでいる

楊氏公寓。建物左側の通りは雁湯路で、両脇には小洒落たレストランやブティックが並んでいる

 お次はフランス租界のメインストリート、淮海中路にあるガラス張りバルコニーが美しい建物。現在の名称は永業大廈だが、かつては楊氏公寓と呼ばれた、1933年竣工のアパート。当時からお洒落な通りだった淮海中路(当時は霞飛路)の風景を、ここの住人たちはバルコニーから眺めていたに違いない。

聖ニコラス教会。ロシア正教の教会で1932年ごろ建てられた。現在は中にデザイン事務所が入っており、かつてはカフェにもなっていた。脇にイギリス留学帰りの上海人が経営する喫茶店がある

聖ニコラス教会。ロシア正教の教会で1932年ごろ建てられた。現在は中にデザイン事務所が入っており、かつてはカフェにもなっていた。脇にイギリス留学帰りの上海人が経営する喫茶店がある

 永業大廈からさらに西側に行ったところには、ロシア正教会の教会跡がある。フランス租界には多くの亡命ロシア人たちが住んでおり、彼らの多くがロシア革命を逃れてきた貴族だったり、教育や文化水準の高い人たちだった。そのため、フランス租界のヨーロッパ的な文化や雰囲気は、この地の管理者であるフランス人ではなく彼らロシア人たちが創りあげていったともいえる。とはいえ、着の身着のままでロシアから逃れてきた人も多く、上海に来たばかりの頃は、食べていくために夜の世界に身を落としていく女性もいたという。

武康大楼。武康路と淮海中路が直角ではなく鋭角30度で交わっているため、建物の先が尖った特殊な造りになっている

武康大楼。武康路と淮海中路が直角ではなく鋭角30度で交わっているため、建物の先が尖った特殊な造りになっている

 淮海中路をさらに西に行くと、フランス租界の西端、当時の高級住宅地に入る。ここにはかつて政府高官やお金持ちなどが住んでいて、今でも広い庭付きの一戸建ての家が数多く残っている。プラタナス並木の両脇に高級住宅が並ぶ武康路と淮海中路の交差点に建っているのが、当時はもっともモダンな建物の一つだった武康大楼。

 1924年に建てられた8階建てのアパートで、当時はノルマンディ・アパートメントという名前だった。ブルガリア人設計士による設計で、建てたのはフランス人の会社。中華人民共和国となってからは、当時の有名俳優などが住んでいた。

上海ユダヤ難民記念館。かつてのシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)を改装している

上海ユダヤ難民記念館。かつてのシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)を改装している

かつてユダヤ難民が住まわされていたエリアの通り。この通りは「リトル・ウィーン」と呼ばれ、ヨーロッパ風のカフェやパン屋などが並んでいた。今では単なる庶民の住居

かつてユダヤ難民が住まわされていたエリアの通り。この通りは「リトル・ウィーン」と呼ばれ、ヨーロッパ風のカフェやパン屋などが並んでいた。今では単なる庶民の住居

 フランス租界から離れて、今度は北側の共同租界へ。共同租界の中央からは外れた東部には、かつてユダヤ人街があった。ロシア革命やナチスドイツの迫害から逃れて上海に来たユダヤ人たちが一か所にまとめて住まわされた、いわゆるゲットーである。最初は貧しい生活を送っていた彼らも、持ち前の才覚を発揮して徐々に経済的に豊かになっていき、ここでの生活から逃れてフランス租界へと移り住んでいく人も多かった。第二次世界大戦が終わると、彼らのほとんどは中国を離れ、アメリカやヨーロッパなどへ渡っていった。

共同租界の東端から西に向かって撮った写真。この辺りの人通りは昼間でもあまりない

共同租界の東端から西に向かって撮った写真。この辺りの人通りは昼間でもあまりない

 ユダヤ難民のゲットー跡からさらに東、共同租界の東端あたりは、今では工場や倉庫、普通の住宅街となっている。今も残る工場は大きいが、それ以外は低い建物しかない。おそらく租界当時も、中心部からはかなり離れていたこともあり、場末感あふれる場所だったのではないだろうか。

 写真に見える高い煙突の手前は、かつては倉庫だったところを改装したアウトレットモールになっている。まだオープンして間もないにもかかわらず、週末でさえ人が少なく、閑散としている。バスや地下鉄が通っている今の上海でさえ、わざわざ行くのが面倒なほど辺鄙な場所。租界内だったとはいえ、当時はもっとさびれたところだったのだろう。

 第二次世界大戦の後、国共内戦を経て中華人民共和国が成立すると、かつて上海の繁栄を支えてきた外国人たちが次々と去っていき、上海は“魔都”としての妖しくも華やかな輝きを失ってしまった。残ったのは、かつての繁栄の残り香と、外国人たちから伝わった習慣や文化、そして彼らによって建てられた建物たちである。

 そこには夏草が生えているわけではなく、まだ古い建物が残ってはいるものの、「兵どもが夢の跡」という、人の行ないの虚しさやはかなさを感じずにはいられない。

 と真面目に締めくくって上海編を終わろうとしたのだが、ここまで書いたら、あと1回だけ文章が書けそうなことが判明した。というわけで、やはり前回の予告どおり、最終回の後編を次回はお送りしたいと思う。

About 佐久間賢三 (40 Articles)
週刊誌や月刊誌の仕事をした後、中国で日本語フリーペーパーの編集者に。上海、広州、深圳、成都を転々とし、9年5か月にもおよぶ中国生活を経て帰国。早稲田企画に出戻る。以来、貧乏ヒマなしの自転車操業的ライター生活を送っている。