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風戸裕の短すぎた生涯[11]第4章 「高松宮に救われ続けた日本電子」①

 裕の生まれた1949年早春、風戸たちは茂原の会社を明け渡してとりあえず東京に出たものの、何度も弱気になっては気力を奮い起こさなければならなかった。

「もう一度同じ道をたどらなければならないのが、なによりも気が重かった。仲間がいなければ電子顕微鏡を放棄したかもしれない」

 株式会社日本電子光学研究所を設立したが、東京の住宅事情は最悪だった。前の会社の退職金は一括して50万円だったが、社員のために2軒の家を買うと終わり。伊藤庸二の口利きで三鷹の日本無線の研究所の一部を借りたものの、それからが苦闘の始まりだった。

【登場人物】
風戸 裕=フジで事故死したレーサー。
風戸健二=その父。日本電子創業社長。

 先に注文を取り、金を少し払ってもらってから電子顕微鏡を造ろうと考えたのだが、営業活動に入るとすぐ、それがいかに虫がいいことか思い知らされた。見本も無しに注文するところなど皆無だったし、風戸たちは会社を追い出された人間で信用は全くなかった。

 しかたなく、まず自分達にできる最善の電子顕微鏡を造ってしまおうと開き直った。問題は運転資金だった。銀行は相手にしてくれそうもない。だが、このときは母や、風戸を信じるありがたい友人が手を差し伸べてくれた。

 売れる電子顕微鏡ということで、風戸たちは高い理想を第一号機にこめた。1.使い易い、2.高性能、3.小型、4.収束レンズなしでも良質のビームを出す、5.高周波電源を採用し電圧安定度を向上させる、6.精密電子回折装置付き、7.倒立型とし高圧部を下に観測部を上にする……。画期的な七つの特徴を盛り込んだ。

 さんざん苦労しながらも、1949年10月半ばに新電子顕微鏡2台が完成する。日本電子光学研究所の第一号顕微鏡ということで、「JEM-1型」と命名した。

 高松宮は「JEM-1型」の完成を知って今度も視察に訪れ、自らシャッターを押してアルミの単結晶を撮影し、急峻な絶壁を彷彿させる写真を残した。

 風戸にとって高松宮は雲の上の人だった。常に「遥かな高みから」風戸たちの行いを見守ってくださっていたのだが、それをお願いしたのは伊藤庸二だった。伊藤は海軍技術研究所で風戸が誘導ミサイル「噴竜」を提唱した ときから彼の考え方に注目していた。

 戦後、電子顕微鏡をつくるに際して、すでに日立が試作した電子顕微鏡を見せて思い止めようとしたときの風戸の反応も伊藤の想像を超えていた。「噴竜」研究チームメンバーで電子顕微鏡をつくるという、大胆な行動力にはつくづく驚いたに違いない。

 伊藤はそれを高松宮にお話しし、自らも風戸と行動をともにしていることを伝えたのだろう。海軍関係者はすべて自分の元部下。宮がどれほど喜び、興奮され、早く先を聞きたがったことか。また、何かあれば助けてやろうと、どれほど強く想われたことだろう。

 風戸健二というユニークな男と、彼と行動をともにする元海軍技術研究所の社員、そして伊藤を助けるために、宮は旧三菱財閥のつてを利用して、三菱化成に電子顕微鏡を買わせるなど、相当無理を頼んだことが推し量れる。それをまた伊藤が心苦しく思い、風戸の知らぬところで、宮のお心を軽くしたいと願っていたに違いない。

 1950年に入ると、社員は20人に増え、毎月の運転資金だけでも馬鹿にならない額になった。社員はJEM-1型を得て営業活動したが、日立、東芝、島津という大手メーカーが電子顕微鏡分野に参入し、非常に苦しい状況だった。風戸を筆頭とする営業マンは、高い性能を示す新しい写真が撮れると売り込み先に持って行った。

 農林省蚕糸試験場の場合もそう。電子顕微鏡を購入するというので何回も訪ねたが、2月から始め6月になっても決定権のある物理部長が返事をしないので焦りも感じていた。そんなある日、外は土砂降りだったが若い研究員が「良い写真が撮れた」と写真を持ってきた。湿度の高い日には良い写真が撮れないことになっているが、驚くほどの出来栄えだった。湿度計を確認すると100パーセントを示していた。風戸はその写真を持って雨の中に走り出た。道路は川となり、ようやくやってきたバスの乗客は風戸1人だった。蚕糸試験場で写真を見た物理部長はその場で「決めましょう」と言った。

(つづく)

久保島武志
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1967年出版社勤務。自動車レース専門誌「オートテクニック」でレースを支える人々や若手ドライバーのインタビューを手がけ、風戸裕のレーシングダイアリーを編集。1974年、レース中の事故による裕の死を契機にフリーとなり、早稲田編集企画室に所属。「週刊宝石」「週刊現代」等で様々なリポートに携わる。