新着記事

風戸裕の短すぎた生涯[34]第9章 「裕、あと一息でF1」⑤

1973年、ヨーロッパでのF2レースの合間に国内では人気絶頂の富士グラチャンに挑戦。

 17台のレーシングカーが地響きを上げて、バンクを流れるように行進するのは迫力じゅうぶんだ。振動がいつまでも続き、後には濃い白煙が立ち込めた。

 アナウンサーが状況を説明する声が流れているが、スピーカーがサーキットのあちこちにあるために、声がずれて何回もこだまし非常に聞き取りにくい。それでもローリングが2周目に入ったことが分かった。

 ペースカーのドライバーとコントロールタワーの競技長は無線で連絡を取っているのだろう、マシンの隊列が乱れ、スタートするのが危険と判断したためにそのままローリングが続行されたのだ。

【登場人物】
風戸 裕=フジで事故死したレーサー。
風戸健二=その父。日本電子創業社長。

 筆者にはその第2周も1周目と変わらずに見えたが、あとで聞くと、すでに隊列はかなり乱れていたようだ。S字コーナーを抜け100Rを過ぎてヘアピンに至る集団の音が遠くなった。

 高速コーナーの連続で最終コーナーからストレートに出ると、「ペースカーがピットロードに入った。グリーンフラッグが振られた」というアナウンサーの声が聞こえた。

 バンクで何事もありませんように。祈りつつ、1周目の先頭のマシンを押さえるために200ミリレンズをつけたニコンのピントをS字コーナー立ち上がりに合わせて待つ。

 だが、予期しないことが起こった。バンクに達しないストレートの終わりで大事故が発生した模様だ。

 アナウンサーの声が裏返った。何があったのか全く分からない。先頭のマシンが現れた。しかし、後続車とは一瞬の間があった。バンクの底に回転しながら落ちていくマシンもある。その遙か先に黒煙が上がった。

 高原敬武の記憶をたどると、彼の前を走っていたのはミーティングで口げんかをしていたワークス系のドライバーマシンで、左前にいたのはそのけんか相手のマシンだった。

 直線終わりで、突如、目の前のマシンが左となりのマシンに体当たりした。接触などではない。相手のマシンに故意に車体をぶつけている。ヤバイと思ったが逃げようがない。

「アッ、またぶつけた。アッ、また」

 弾き出されたマシンがスピンし、コース左に外れた。その一瞬に高原はすり抜けたが、コース外に出たマシンは強引にコースに戻った。瞬間、250km/hのスピードで脇をすり抜けようとした風戸裕の白いシェブロンの左後尾に激しく体当たりした。

 裕のマシンは、瞬間テールから跳ね上げられ、強制的に左に顔を向けられた。ハンドルは言うことをきかない。250km/hの猛スピードをさらにプッシュされて、マシンはコントロール不能のままコースを外れ、ガードレールに激突した。

 支柱2本を根元のコンクリート塊ごと一瞬ですくい上げ、1本を車体にくわえ込んで空に飛んだ。信号灯を破砕し、飛び散りつつなお飛び続け、コンクリートの壁に当たって弾き返され、さらに数十メートル先に落下した。その瞬間、満タンのガソリンが爆発、マシンはすさまじい炎に包まれた。

 最初にガードレールに激突した際に、そのショックでガードレールがムチのように激しくたわみ、その力で瞬間的に支柱が根こそぎ持ちあげられた。その支柱の1本が裕の頭部を直撃した。裕は即死だった。それからマシンは空に跳ね、落ちて炎を噴き上げた。

 風戸と瑞枝は正面スタンドで、白い、裕のシェブロンらしいマシンが高く空に飛び散るのを認めた。裕の最後を見届けたのだった。

 裕の遺体はヘリで病院に運ばれ、検視の後、その夜のうちに風戸家に帰った。友人たちが駆けつけ、大勢が裕の棺にとりすがって泣いたが、風戸は、裕との約束どおり、取り乱すことなく立ち続けた。

 遺品の免許証入れには、国際ライセンスとともに、CAN-AM挑戦直前に亡くなった戦友・佐藤敏彦の写真が入っていた。裕は終生、佐藤とともに疾走り、去った。

 この事故で、鈴木誠一もガードレールに激突して燃えるマシンの中で亡くなった。レースはテレビで実況され、事故の模様は多くの人たちも見た。また、翌朝の新聞には大きく報道され、一面に黒煙を上げる事故現場の写真を載せたものもあった。このレース以降、富士スピードウェイの6キロコースは使われなくなり、30度バンクは封印された。

 空に舞い、落ちて爆発し、炎上したシェブロンB26から、風戸裕は、《いったんは、脱出してきたのである。観客は見た。風戸裕がそれでもヘルメットを脱ぐのを。「現れた風戸の顔は炎にあぶられてまっ赤だった」という。気力はそのとき、つきた。膝がガクッと折れると、風戸のからだは力なく、夏草を死のしとねにして倒れた》。

 裕の死について、ずっとこの説を信じる人が多かった。

 実際にスタンドから見ていた何人もの人が、同じように語り、「週刊プレイボーイ」誌1974年6月25日号に、この記事が載り、さらに、それをもとにして裕の最後を描いた漫画が翌月の同誌に掲載されたせいだった。

 漫画では倒れる前に、裕が怒るように叫んだことになっている。

「オレは死ぬわけにいかない」

 それは、裕の最後の気持ち。実際に死に切れぬ裕の思いが、観客に真昼のイリュージョンを見せたに違いない。私自身、ずっとそう思っていた。空に舞い上がる前に亡くなっていた説と両方あることも知り、そちらが正しいこともわかっていたが、こちらの話を信じたかった。

 由美子は裕の死を、やはり富士スピードウェイの正面スタンドで感じ取り、泣き崩れた。風戸と瑞枝は、見守るしかなかったが、由美子は自分の道を切りひらいていった。

 後年、瑞枝から聞かされたのは、由美子が愛した裕に再び逢いたくて一人で出かけたロンドンや二人の思い出が残る地への旅のことだった。その旅で由美子は心の内に裕を確かに感じ、「ヒロシのいない道のりを歩く恐れが和らいでいった」と告げた。
(第9章 「裕、あと一息でF1」おわり)

About 久保島武志 (65 Articles)
1967年出版社勤務。自動車レース専門誌「オートテクニック」でレースを支える人々や若手ドライバーのインタビューを手がけ、風戸裕のレーシングダイアリーを編集。1974年、レース中の事故による裕の死を契機にフリーとなり、早稲田編集企画室に所属。「週刊宝石」「週刊現代」等で様々なリポートに携わる。