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vol.7「高倉健、菅原文太の訃報で知る、昭和の大スターと昭和史の奇妙な側面」

 役者としての高倉健を「あまりうまい役者じゃなかった」とはっきり言ったのは、東映社長だった高岩さんだけだった。同じように、彼が本当の極道になったとしても「親分にはなれなかったね」と言ったのは、作家の安部譲二だけ。スターの訃報や追悼に苦言は禁句。まして健さんは、故石原裕次郎や、長嶋茂雄に並ぶ、昭和の大スター。でも思う。昭和一ケタ世代というのは、私の死んだ父親もそうだが、大半が無口であり、頑固者であり、冠婚葬祭こそが大事であり、食べ物を粗末にすると怒った。文太さんなどは、げんこつ親父だった。

 健さんが大ヒットした裏に、他人を圧倒するキャラクターがあったのなら、それを知りたいと思ったのだが、結論は「大いなる俗物役者」だったと言ったら、叱られるのだろうか。

 健さんの「網走番外地」とか、任侠映画は、’60年代の大ヒット。’70年代には続編として、菅原文太の「仁義なき戦い」が人気を得た。時代は’64年の東京五輪と同じ頃。子供心に記憶する東京五輪は、日本の近代化であり、国際化で、日本が世界の仲間入りを果たした結果だった。新幹線と高速道路ができて、東京が国際都市になった。

 その同じ時代に、片方では極道やら任侠もの、暴力物が見られた。客層が明らかに違う。義理人情を重んじて、日本刀やピストルで暴れるのが(今では反社会勢力)、あの時代、一部には大歓迎されたのだ。「あんな映画は見ちゃいけない」と普通の子供は親にいわれたものだ。さらには「ローマの休日」なんていう、オシャレな外国映画だけを見る客もいた。

 健さんの私生活がベールに包まれているというのは、秘密主義の俳優さんだったから。江利チエミと生涯一度だけの結婚をし、妊娠が水子になり、それを生涯鎌倉霊園にお参りしたという、義理難い九州男児だった。その後の健さんに浮いた話はなかったが、しかし「ハレンチ学園」の児島美ゆきとか、共演した石野真子に、健さんが本気だったという話を聞くにつれ、ちょっと本当なの? と驚いた。それならば、女房役がぴったりだった倍賞千恵子とか、女子大生デビューから知っていた壇ふみとか、その友人の名取裕子でも、同じく共演のいしだあゆみでも、浮名くらい出てもよさそうに思ったが。しかし健さんとしては、ちょっとエッチで自由に会える女性が好きとは、それこそ健さんっぽいと思い直したが。

 ’77年の「幸福の黄色いハンカチ」は、ヨーロッパに伝わる心温まるお話をモデルに、大ヒットになった。主役の健さんは映画人生第2幕のスタートで、共演の武田鉄矢、桃井かおり、倍賞千恵子もこれ一発でスターダムに駆けあがった。それ以降の健さんは大作主義。「駅」でも「居酒屋兆治」でも。こうなると、健さんが主役だから映画はヒットすることになる。逆に代役だったらと想像すると、ヒットはなかっただろう。映画会社にとっては、脚本の優劣よりも、健さんを配役したことが誉められた。

 なのに本人は「俳優という仕事は好きじゃない」という。そうなのだ。彼には役者論も演劇論もない。「口下手ですから」というのは、徹子の部屋に出たときもそうだし、映画のセリフでも同じことをいう。悪くいえばセリフの棒読み。ビートたけしがいうには「健さんはそこに存在するだけでいい」。すると「俺は富士山と同じか」と答えたといわれるが、まさにそうなのだ。存在こそがスターなのだ。オフは「ハワイで一人くつろぐのが好きだ」というが、しかしそれを嫌いな人は誰もいないと思う。

 健さんは、男に惚れられた役者だ。「偉ぶらない」という人もいるし「礼儀がある」という人もいる。共演者の親が死んだ後に、三回忌にも七回忌にも線香が送られてきたと。

 ああ思い出す。昭和のブルドーザーの田中角栄は、財務外務官僚の奥さんの誕生日まで記憶していて、さりげなくプレゼントを贈っていた。「ワシは高等小卒だ」と、相手をヨイショし、官僚を手なずけた(最後は収賄罪で有罪になった)。名うての営業マンだったこと。似ている。えげつないくらいのセンスと、義理人情。

 無口な昭和一ケタ人が、スター街道を驀進しながら、惜しまれたままひっそりと亡くなった。無骨な人が消えていく昭和史を思う。(sp)

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