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風戸裕の短すぎた生涯[10]第3章 「裕、自動車レースに魅かれる」⑤

 1969年(昭44)9月末、タキレーシングのチームメンバーが揃って富士スピードウェイで練習走行する日がきた。裕は初めてカレラ10をドライビングした。いままで裕が経験したことのないパワーを発揮するポルシェのエンジンは裕の腹を震わせる野太い音を轟かせた。ぞくぞくするような力強い振動が体に伝わり、アクセルの踏み込みに応じて巨大なマシンが実にスムーズに走る。さらに深く踏むと、体がシートに押し付けられ、マシンがグワンと吠えて宙を飛ぶようにダッシュした。

【登場人物】
風戸 裕=フジで事故死したレーサー。
風戸健二=その父。日本電子創業社長。

 軽く走っているつもりでも、裕がかつて味わったことのないテンポで加速する。それが生み出すG(重力)に対抗する心の備えがなかったために、裕は一瞬不安にとらわれた。しかし、エンジンのレスポンスの良さはS8に勝るとも劣らず、エンジンが大きい分、回転の上がり方がスムーズだし、回転数を維持する必要もなくアクセルワークに集中できる分、裕にとって運転しやすいことが分かった。

 視野が広いコクピットの眺めからして感動的で、自分が大きくなった気がした。

 だが、裕はいきなりカレラ10に乗るのがどんなに無謀か、いやというほど教えられる。全くタイムが出なかったし、S8やブラバムで分かっていたはずのコースの取り方まで分からなくなった。ホンダS8では一流と自他共に認められた裕だが、国産800㏄とドイツ製2リッターの差は想像以上に大きかった。一挙に5ランクも6ランクも上のカレラ10に乗ったために、従来の自己流のドライビングが通用しなかった。

「とにかく教えてやってよ」

 猪瀬は田中に頼み込んだ。

 田中が、永松が、長谷見が地面に棒で図を書きながらコースの取り方を裕に教えたが、しばらくは変化が起きなかった。裕は長い間に身についたクセを捨てて、新しいラインどりを実行することができなかった。それは当然だった。田中たちの考える理想のコースをとるためには、二輪を経なければ体得できない、コーナーでの重心移動のテクニックを必要とした。

 マシンを全身で操るオートバイライダーにとっては常識でも、裕にはそれができなかった。しかし、誰にも負けないものもあった。集中力と持続力……。田中や永松のアドバイスを言葉として理解しつつ、体でおぼえるために裕は、「もう1周」、「あと1周」、とせがんではカレラ10を走らせ、やはり、ジリジリとタイムを縮めていった。

 普通のドライバーだからこそ裕は、自分自身を「なぜできない」、「なぜ怖がる」と責めた。ついには「何も考えるな」と自らに命じ、手に脂汗、首筋に冷汗をかきながら強引にコーナーを抜けていった。

 当時の富士スピードウェイは、6キロのコースのうちスタンドから目にすることができるコーナーは、正面奥の100R出口からヘアピンを抜けるまでだったが、田中には裕が100Rの一番外側を抜けて出てくるだけで、その前のS字コーナー出口で乗ったスピードを殺してしまったと判断できた。しかも、その結果、100Rコーナー外側からアクセルオンしてヘアピンに入ると細かい連続のコーナーとなり、横Gによってマシンの挙動が安定せず、ミスしやすくなってしまう。

 田中たち二輪育ちは高速のまま100Rのインを突いて直線のように進みハンドルを切るのは一度だけ、ヘアピン手前で車の重量移動を完了し姿勢を安定させている。このほうが四輪に平均して車重がかかってコーナリング能力も高く、ブレーキング性能も良いため、100Rアウトから入るよりタイムも稼げる。そのためには、さらに手前のS字の抜け方が問題だ。

「S字コーナーを最速スピードのまま抜け、100Rでインをついて直線のように抜ける。そのために、30度バンクでは下のほうに位置をとり、S字に入る前に姿勢を変えておく必要があるんだ」。田中は根気よく裕に教え、練習の合間には、マシンのいないコースをバンクからS字まで歩いて、コースの各部を手でよく見、触っておぼえさせ、姿勢の修正のし方を教えた。

 富士スピードウェイ6キロコースの第1コーナーには30度バンクがあり、このバンクを抜けたあたりに、コース中央が盛り上がった、田中たちが「馬の背」と呼ぶポイントがあった。その手前からコース路面は荒れ、アスファルトの舗装が波打ちデコボコしていた。裕は従来、馬の背のはるか上を走っていたのだが、タイムを上げるためには、この下を走る必要があることを教えた。

「バンクの遠心力に逆らって馬の背の下を走り、S字入り口までにアクセルを踏み込み、カウンター(進む方向と逆にハンドルを回す)を切ってパワースライド(ブレーキをかけず逆にアクセルを踏んでテールを滑らせて向きを変えるテクニック)によってマシンの姿勢を変えろ」。マシンの限界を、シートに押し付けられる背中の感触で察知できる二輪出身ドライバーにとってはアタックできる理論だが、裕にはとんでもない話だった。

 富士の30度バンクは、スタートして直線を1キロ弱走ってマシンがスピードに乗ったあたりに立ちはだかる壁であり、30度の傾斜のついた右に曲がるコーナーだ。ブレーキをかけず、スピードに乗ったまま遠心力で走り抜けるための傾斜なのだから、裕にしてみれば車のスピードに任せてバンク上方を駆け抜ける方が絶対に速い。そう体でおぼえ、固く信じていた。したがって、バンクの下にコースを取り、走行中にコースを上方に変えるなどということは、いままで考えたこともなかった。しかも、馬の背を超えたあたりでさらにマシンの姿勢を変えるために、パワースライドをかけるというのだから、想像を絶する技で、そんなことができるとは信じられなかった。それでも裕はトライした。

 だが、馬の背の下に入ることを意識すると、ついアクセルを緩めてしまい、スピードが殺がれるためその先のパワースライドによる姿勢変更もうまくいかない。田中は3リッターのポルシェ908をドライブし、風戸に910で追走させて、カウンターやパワースライドを徹底的に身体でおぼえさせた。次に、こう言って風戸を先に行かせた。

「バンクで下から抜くからお前上からよく見ていろ」

 裕は半信半疑でスタートした。すぐに908が追いかける。ふつう、バンクに先に入ってしまえば抜かれる場所はないはずだ。裕はフルスロットルでバンクを駆け上がった。だがどうだ、自分と同じ高さに駆け上がったと思い込んでいた908が、途中から右下後方につけ、スルスルと並ぶとアッという間に前に出て、確かに馬の背の下を走っていく。しかも、四輪をわずかに滑らせるようにパワースライドさせて一瞬で姿勢を変えると、ほとんど最速のままS字コーナーに進入していった。

 裕は田中の言葉をやっと理解した。そのため、かなり勇気を振り絞って、田中と同じコースを走ろうとアタックするようになった。そして、レースが近づくと、3回に1度は成功するようになった。

滝レーシングに加入、ポルシェで連勝中の笑顔。

滝レーシングに加入、ポルシェで連勝中の笑顔。


 レース本番は元二輪グランプリライダーの長谷川弘と組み、910が調子良かったこともあって、総合8位、クラス優勝する。

 続いて一1月3日の富士300キロゴールデンレースを一人で走りぬいた風戸裕は総合優勝を飾り,富士を初制覇した。2分1秒38と堂々たるタイムで予選2位。50周でチェッカードフラッグを受けるまで積極的に首位を走った。

 自動車レースを報じるジャーナリズムは、初め「成蹊大学に在籍する学生チャンピオン」と紹介したが、それまでビッグレースでは全くノーマークで裕のレースの走りも見ていなかった記者が多く、「良いマシンとツキに恵まれた勝利」、「フロック」など、素直に腕を認めない論調だった。しかし、裕は記者たちのこの評価を、瞬く間にレースで改めさせていった。

 ’70年1月18日の全日本鈴鹿300キロレースが転機だった。予選は雪、しかも全く初めてのコースで、以前の裕なら攻めあぐねたはずだが、鈴鹿育ちの永松那臣の的確なアドバイスもあり、予選8位につけた。本番では永松のポルシェ908、師匠・田中健二郎のフォードGT40などを、カレラ10の性能をフルに発揮して裕はよく追い続け、永松に次ぐ2位(クラス優勝)に入り、田中にも「一皮むけた」と印象づけた。

 筆者は『オートテクニック』というレースやラリーなどを扱うモータースポーツ専門誌の編集者だったが、このころようやく風戸裕を認識し、たちまち好きになってしまった。実は、ボーグルズメンバーで裕の高校以来の親友、デザイナーの石崎芳人がこの「オートテクニック」の表紙だけでなく、多くのページのデザインをするようになって、夜遅くまで一緒に作業を進める時間が多くなったのだ。折に触れて石崎が話す風戸を身近に感じ、筆者自身が裕を身内のように思い始めていった。

 続く3月8日の全日本鈴鹿自動車レースでは、雨の予選で苦しみ、ミッションも不調で予選12位だった。しかし、猪瀬が徹夜で直したため、スタートするや、3周目にトップに立って25周を走りぬき、フォードGT40を押さえ、高橋国光のスカイラインGTRを周回遅れにして総合優勝する。裕もカレラ10も乗りに乗り、もはや、誰も止められない勢いだった。

 筆者はこの鈴鹿の2回のレースを観戦した。初めはポルシェに乗る風戸裕は鈴鹿のファンに冷淡に迎えられていると感じた。関西のファンにとって鈴鹿は聖地であり、「富士よりずっと難しく、鈴鹿育ちのドライバーが絶対に速い」と信じていたせいだ。ところが、ただでさえ難しい鈴鹿を、まだコースが濡れた状態で誰よりも速く走る裕のポルシェ910に、観客が渋々態度を変えていった気がする。「風戸」に対する声援がレースが進んでいくほどに大きくなっていった。

 3月22日に富士スピードウェイで行われたJAFスポーツカー選手権でも優勝。さらに4月5日、3度目の鈴鹿で初めての耐久レース、鈴鹿500キロ耐久レース(84周)にも優勝する。裕への声援はレースのたびに増え、このレースで裕は鈴鹿のファンの心も完全につかんだ。完璧な3連勝。クラス優勝を含めれば6連勝だ。

(第3章 「裕、自動車レースに魅かれる」 終わり)

About 久保島武志 (65 Articles)
1967年出版社勤務。自動車レース専門誌「オートテクニック」でレースを支える人々や若手ドライバーのインタビューを手がけ、風戸裕のレーシングダイアリーを編集。1974年、レース中の事故による裕の死を契機にフリーとなり、早稲田編集企画室に所属。「週刊宝石」「週刊現代」等で様々なリポートに携わる。