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風戸裕の短すぎた生涯[19]第7章 「裕、不運な低迷の中でも輝きを放つ」①

photo:ビル大友・著「レクイエム風戸裕」より

「F2でF1への道を切り開くことに全精力を注ぎ込もう」。’71年後半、裕は決意した。

 フォーミュラは動きがシビアなために、CAN-AMマシンとは比較にならない集中力を求められる。ある意味でローラT222が裕の体に染み込ませたものがマイナスに働くことも考えられた。それを克服するには、背水の陣を敷かなければ……。だから、この年の日本のレースは捨てた。ローラT222もポルシェ908MkⅡも売り払った。

【登場人物】
風戸 裕=フジで事故死したレーサー。
風戸健二=その父。日本電子創業社長。

 次の課題はF2でどのマシンに乗るか。ほとんどのレース関係者は、例外を認めつつも、マシン+エンジンの力を6~7割と見ていた。ドライバーの腕がそこそこあれば、マシン次第というわけだ。逆に言えば、力があっても戦闘力のあるチームで良いマシンに乗らなければその片鱗さえ示せないこともある。’71年のF2レースはマーチのワークスカー、マーチ712Mに乗るスウェーデンの若者ロニー・ペテルソンが圧倒的な強さを発揮していた。裕は’71年9月からF2の準備を始め、このマーチに狙いを絞り、チームオーナーのロビン・ハードをたずねて交渉に当たったが不調だった。

 このF1ピラミッドという未知の世界について、日本ではやはり玉眞和雄が一番精しかった。

 玉眞は再び風戸裕と父健二、そして家族一族の要請に応えてロンドンに飛んだ。マーチを訪れ、実際のチーム運営を牛耳っていたマネージャーのマックス・モーズレーに裕をワークスドライバーとして売り込んだ。十分な金を払うことも伝えた。セカンドドライバーの座を買おうとしたのである。しかし、すでにオーストリアのニキ・ラウダが交渉に訪れていたのが裕にとっての不幸の始まりだった。

 ニキ・ラウダは裕と同い年だが、すでにその神業的な走りがヨーロッパのファンに知られていた。ヨッヘン・リントやロニー・ペテルソンと並んで世界最速のドライバーの仲間入りをし、’71年のオーストリアGPでF1デビューするや、たちまちトップで活躍するドライバーだった。一方、いくら日本やCAN-AMで人気を博したとはいえ、裕はヨーロッパでは全く無名だった。ニキ・ラウダの走りを知っていたマーチのモーズレーは、迷うことなくラウダを選んだのだ。ニキ・ラウダは日本の文化に憧れ、裕になついた。裕は、自分の行く手を阻んだこの男を、アパートに招いては日本から運んだ電気釜でご飯を炊いて食べさせたという。 

 ’72年、裕は結局モーズレーが推薦するピーター・ブロワがマネージメントするマーチ・セミワークスチームと契約を結んだ。2月19日にロンドンに向かい生沢徹夫婦にならってアパートを借りたはいいが、炭鉱問題の電力ストで停電が頻発。ヒーターもきかず、裕は寒さに震え続けた。猪瀬に言わせればF2シリーズの見通しそのものも「絶望的にお寒いもの」だった。

 レギュレーションが急に変わり、2リッターのグループ2エンジンが義務付けられたのだが、年間生産台数1千台を超えるエンジンをベースにするため、電力ストの影響をもろにかぶって生産が間に合わなくなっていた。裕の新型F2、マーチ722は悪くなかったが、悲劇は裕の所属したピーター・ブロワ・チームのあらゆる意味での能力不足だった。特に致命的だったのは、エンジンに目の利くエンジニアがゼロだったこと。良いエンジンの情報を素早くキャッチできず、エンジンはBDA社製の1600cc、最悪のエンジンしか持ってこなかった。

 そのままシーズンは開幕を迎えた。だが、驚くべきことが起こった。3月12日、イギリス、マロリーパークのF2GC第1戦、赤い風戸裕のマーチが観客に強烈にアピールしたのである。裕は1600ccのハンデなど吹き払うかのように、予選から猛然と走りこんだ。尊敬し、憧れ続けた先輩の生沢徹と同じレースで走るという気持ちの高揚もあったし、前座のF3には桑島正美が出場していて日本からの報道陣も詰め掛けた興奮もあっただろう。

 裕はマシン調整を一切しないまま、がむしゃらに走り続けた。それでも予選タイムは45秒8どまり。トップのペテルソンは43秒4。2秒の差はとてつもなく大きい。それなのに、本番に入るや、裕の真っ赤なマーチはスタートから飛び出し、先陣争いを演じてレースを盛り上げ続けた。アクセルを全開にしたままコーナー直前まで突っ込み、ギヤを落とすと同時にブレーキを蹴とばすように短く踏み、小さくハンドルを振ってコーナーを直線ですり抜ける。裕は8リッターのローラから約半年ぶりに一気に5分の1、1600ccマーチに乗ったのだが、フォーミュラの感覚を全身がすぐに思い出したようだ。

 狭い、コーナーの多いマロリーパークサーキットが、非力な裕のマーチに戦闘力をプラスしたこともある。直線で抜かれてもコーナーを出るときには先頭に立つ、ゼッケン21、赤のマーチにコース全体を埋めた何万という観客が声援を送らずにいられなくなった。裕の走りには見るものの胸を打つひたむきさがみなぎっていた。残念ながらオイルポンプのトラブルによって31周でリタイヤしたが、観客はいつまでも裕に拍手を送り続けた。

 エンジンがダメだからと腐らないのが裕だ。裕は3戦目、4月3日のイギリス、スラクストンでも予選が始まると果敢にマーチを攻めて走り出した。ところが、コーナーでスピードが乗りすぎ、勢い余って大スピン、クルッと後ろ向きになり、そのままのスピードで土手に激突、縦向きにでんぐり返し、ドシンと土手に叩きつけられた。裕はマーチの中で仰向けから逆立ち状態になって停まった。ガソリンがもれて火がつけば一巻の終わりだ。幸い裕は意識があり、冷静にキーを切り、ベルトを外して自ら狭い隙間から這い出した。そこに到着した救急カーはうむを言わせず裕を病院に搬送してしまった。

 ピットで事故を知った猪瀬は、現場に駆けつけたが、すでに裕の姿はなく、最悪の事態を覚悟した。しかし、念のために日本に戻って脳波を確認したが幸い異常はなかった。5戦目、4月30日のドイツ、ニュルブルクリンクは5位。ノンタイトルながら裕と猪瀬以下チーム全員大喜びだった。

(つづく)

久保島武志
About 久保島武志 (65 Articles)
1967年出版社勤務。自動車レース専門誌「オートテクニック」でレースを支える人々や若手ドライバーのインタビューを手がけ、風戸裕のレーシングダイアリーを編集。1974年、レース中の事故による裕の死を契機にフリーとなり、早稲田編集企画室に所属。「週刊宝石」「週刊現代」等で様々なリポートに携わる。