風戸裕の短すぎた生涯[31]第9章 「裕、あと一息でF1」②
私は裕のシェブロンNo.2の決定を大きな驚きで聞いた。
【登場人物】
風戸 裕=フジで事故死したレーサー。
風戸健二=その父。日本電子創業社長。
F2の成績しか知らず、現地の雰囲気や途中のいきさつを知らず、なぜ成功したのか分からなかったからだ。しかし、徐々に理解した。そして、心の底から嬉しくなった。
ヨーロッパフォーミュラの世界では、マシンに差がなく、自分より腕が良いか、力の伯仲したドライバーが団子状態でひしめく。単に速くとも、神経の弱い、あるいはもろいドライバーはレースを続けられない。そんな、一般常識では考えられないレースの世界に居座り、裕はついにF1につながるレース関係者へのアピールに成功したのだ。
だが、’74年最初のレースは、5月5日の富士GCレース第一戦「富士300キロ」だったのだが、このレース後、私は裕に対して腹を立てることになった。
ロングテールのニューシェブロンB26・BMWは相変わらず好調で、自己ベストの予選タイムで6番手からスタートした。ところがレースが落ち着いて4周目、高原のマーチ74Sと抜きつ抜かれつのデッドヒートとなった。最終コーナーに並んで入っていき、高原はイン、裕がアウトだったが、高原マーチがアウトにはらんでシェブロンにぶつかってしまった。そのため裕は31周したもののストップ、リタイヤした。
一方、高原もしばらく走ったあとリタイヤ。裕はパドックで高原をつかまえて「あのまま完走してたらぶんなぐってやるつもりだった」と一言。私はそれを見てしまった。
プライベートドライバーは元ワークスのドライバーと違って、決してわざとマシンをぶつけたりしない。GCマシンはデリケートで、ぶつけてもぶつけられても簡単に致命傷を負ってしまう。だから高原がわざとぶつけたのでないのは裕も頭では理解したはずだ。
私はこのとき、裕の、というよりドライバーの本性を見たような気がして情けなく腹が立ったのだ。これではつまらない、ただのけんかと同じだった。レーシングドライバーとは、何も考えない闘争本能だけの生き物なのか。
私は「ああ、そうなんだな」と納得し、気持ちが沈んだ。裕が自分とは異質な世界の人間に感じられ、彼の言葉も聞き苦しかった。私は思い込みが強い人間だった。もちろんその後、腹を立てたままではいられず、私は深呼吸すると気持ちを切り替えた。
二人とも、周りの雰囲気に染まって熱くなりすぎていただけで、裕にしても高原にしても、少しでも心に余裕があればこんな馬鹿なことはしないはずだ。
そう、GCレース界は中野の死の前から殺伐とした雰囲気が漂っていた。ドライバーの経済的な格差が広がってしまった。良いチームに入って、良いスポンサーがついたドライバーがいるかと思えば、レースのたびに身銭を切らなければならない選手も多かった。
たとえば某タイヤメーカーに囲い込まれた選手には、GC用スポーツカーとBMWの最高のエンジン2基を買えるだけの契約金が支払われた。チームがマシンもエンジンも用意する場合、契約金はその選手個人のものとなり、俄然羽振りも良くなる。一方、ワークスでは自分のほうが上だったのにという思いだけ空回りし、なぜか恵まれない者もいた。
オイルショックと排ガス規制によるスポンサーの激減で状況は悪化するばかり。貧乏な環境にいてもプライドが高いだけに、羽振りの良い選手の一言や表情が神経に障ってしかたない。しかも、貧乏レーサーは中古の二流エンジンしか手に入れられず故障が多い、と悪循環がつきもので、優勝300万円、2位150万円、3位100万円という賞金にも縁遠く、不機嫌で、いつキレてもおかしくない状態のレーサーが何人もいた。
(つづく)