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風戸裕の短すぎた生涯[32]第9章 「裕、あと一息でF1」③

1973年、ヨーロッパでのF2レースの合間に国内では人気絶頂の富士グラチャンに挑戦。

 予選も、ドライバーズミーティングも刺々しく、本番のレースでもイチかバチか、とんでもないことをする者が出そうだった。ドライバーには速い者やカテゴリー別の第一人者はいたけれど、ドライバーの組織は機能せず、ドライバーをまとめる人格者はいなかった。競技長もレース主催者やテレビ局の意に従い、見識を教える者はいなかった。

【登場人物】
風戸 裕=フジで事故死したレーサー。
風戸健二=その父。日本電子創業社長。

 それに加えてマシンもサーキットも安全面では未熟で、現代のレースの安全度の半分以下だった。マシンには安全燃料タンクが未装備で、サーキットにはクラッシュパッドもグラベルゾーン(砂利を敷いてマシンの動きを止める安全地帯)もなく、グリーンゾーンは狭く、ガードレールは一重だった。

 その中で、風戸裕は、中野の事故死のあと、佐藤敏彦の事故死も思い合わせ、安全のためにレース界に一つの提言をしていた。

「ピットロード入り口と、バンク手前にシケインを置いて減速させるべきだ」

 シケインとはレーシングカーのスピードを落とさせるための障害物のこと。障害物といっても、固定したパイロンや金属板などでつくるコーナーなどで、危険な物ではない。

「絶対スピードが速くなりすぎて危険なのは誰でもわかっているはず。事故を防ぐために、シケインを設け、特に危険なバンク手前でスピードを落とさせよう」

 これ以上ない現実的な風戸裕の提言だった。しかし、なぜか容れられなかった。

 5月のレース後、筆者は裕にというより、レーシングドライバーに違和感を抱いて積極的に話を聞くのをためらうようになっていたため、裕にシェブロン入りを祝福する言葉をかけたのは6月1日だった。GC第2戦の予選の後、フジスピードウェイのドライバーズサロン前で裕を見かけた。レーシングスーツ姿の裕の周りには大勢のレース仲間や女性が集まり、ひときわ華やかな雰囲気が漂っていた。

 人垣に圧倒されて、裕と目が合った筆者はちょっと頭を下げて通り過ぎようとした。しかし、裕はわざわざ輪から抜け出てきてくれた。筆者の祝福に晴れやかな笑顔を浮かべて裕が礼を言った。裕は少し筆者の相手をしようと決めたようで、ゆったりと立っている。

 以前、身長175cmの裕は、ほっそりしていたが、いま目の前に立つ裕は体重が55kgから60kgに増えただけというのに、レーシングスーツの上からも腕の筋肉が盛り上がるのが分かり、身長以上に大きく感じられた。

 筆者はヨーロッパで裕が認められたことは理解していたが、裕自身、自分がどう変わったと思っているのか聞いたことがない。絶好のチャンスだった。

「何が一番変わったと思う?」

 裕は腕を組みちょっと考えたが、小さくうなずいて答えた。

「『強くなったこと』かなー。でも少しね。まだまだ……」

 裕が「強さ」を心から求めていることが伝わってくる「かなー」だった。クラッシュを恐れない「気迫の強さ」、その瞬間にベストを尽くす「集中力の強さ」……。

 いま、裕はシェブロンでレベルアップしようとしていた。だからこれまで以上に、「スピンしない強さ」、「クラッシュしない強さ」が求められる……。それでもクラッシュはついてくるが、裕はそれを承知で、「F2で早く結果を出して、F1を走るようになってからが本当の勝負だ。そのために、もっともっと『強さ』を磨かなければ……」。そう言っているようだった。

 だが、裕自身、本当の「強さ」という点で未熟なことを自覚し、先が見えないことに戸惑っているような表情を浮かべていた。

 筆者は急に不安になって胸が騒いだ。実は別の機会に裕は、「クラッシュは自分から求めてるわけじゃないんだ。でも、ギリギリまで攻めないと、コントロールの限界がつかめない。限界をつかんだら、その限界そのもののレベルを上げていく……。そうやっていくしかないから……」と発言し、筆者はそれを聞いて、ヨッヘン・リントの姿を思い浮かべ、内心で「やめてくれ」と叫んだことを思い出したからだ。

「強さ」をそなえ、頂点に立ちながらもリントはさらに高い限界を追い続け、クラッシュで死んだ。レースが好きになれない臆病な筆者にとって、「限界」は「クラッシュ」と同義語であり、どんな「強さ」にも、それを越える「限界」があるとわかっていた。

 裕が妙な顔をしてべそをかく筆者を見ていた。
(つづく)

About 久保島武志 (65 Articles)
1967年出版社勤務。自動車レース専門誌「オートテクニック」でレースを支える人々や若手ドライバーのインタビューを手がけ、風戸裕のレーシングダイアリーを編集。1974年、レース中の事故による裕の死を契機にフリーとなり、早稲田編集企画室に所属。「週刊宝石」「週刊現代」等で様々なリポートに携わる。