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風戸裕の短すぎた生涯[12]第4章 「高松宮に救われ続けた日本電子」②

 一方で風戸は新技術の導入に貪欲だった。電子顕微鏡の営業に回っていると、研究者の欲しがっている性能が明らかになる。そして日本電子(当時はなお日本電子光学研究所)は風戸自ら、その要求の意義を理解し、しかも技術的にもかなりの部分の判断がついたため、決断に躊躇しない点が強みだった。1950年3月にはさらに高性能の「JEM-3型」の開発に入り、半年後の10月に完成したのだが、これが会社を救うことになった。

【登場人物】
風戸 裕=フジで事故死したレーサー。
風戸健二=その父。日本電子創業社長。

 実は間借りしていた日本無線が経営状態悪化のため、土地を売らねばならず、風戸たちは立ち退きか、建物と土地を買うかの選択を迫られていた。金額は150万円、支払い期限は1951年3月であった。このことを嗅ぎ付けた他社のセールスマンは「日本電子はいつ潰れるか分からない。あそこの商品を買うとアフターサービスがないぞ」と触れ回り、日本電子は絶体絶命のピンチに立たされていたのである。

 11月に東大伝染病研究所、東大生産技術研究所、国立遺伝学研究所3か所に電子顕微鏡の予算がついた。競争は激烈で、1台でも受注できれば儲けものという状況だったが、タイミングよく「JEM-3型」でセールス活動を展開したため、3台とも受注することができ、日本無線への支払いも済ませることができた。初めて自社の土地を手にした。

 しかし、電子顕微鏡のような高額な機械を購入させるには通常の営業努力だけではかなわない。日本でものを言うのは、信用、あるいは顔だ。この顔として、風戸は得難い人物の応援を得ることになる。及川古志郎・元海軍大将である。子息・及川三千雄は生物学者として電子顕微鏡の応用研究に参加していたが、日本電子の窮状を心配して「おやじを紹介しましょう」と言ってくれた。風戸にとっては「雲の上の人であったが」、その懐に飛び込んで行った。

 及川は話を聞くと日本電子の事業の意義を認め、後には取締役を引き受けてくれた。彼の援護によって日本電子のその後の発展が実現したといってもいい。やはり後に取締役になる渋沢敬三、郷古潔という、時の経済界の重鎮を紹介してくれたのも及川であった。及川、渋沢、郷古、この三人が紹介してくれた大会社や電子顕微鏡を買ってくれそうなところを風戸は藤野清秀とともに訪ねて大変な成果を挙げた。専売公社のたばこ試験場、北越製紙、科学博物館、東京工業奨励館、八幡製鉄、信州大学などから受注できた。

 風戸は電子顕微鏡に理想を持っていた。物質の本質を究めるために極微の形体の観測と、その構造を決定することだ。初期の電子光学技術ではまだ無理と考えられていたが、1951年2月、伊藤一夫研究部長がオランダのルプールの文献を持ってきた。それによると対物と投影レンズの間に、もう一つ可変レンズを入れることによって、電子顕微鏡像と、その電子回折像を観測することができるという。伊藤の説明を聞き終わる前に風戸はその開発を決心していた。

 半年後に完成した「JEM-4型」で応用研究グループは新しい写真を撮りまくった。それは電子顕微鏡像であり、その中のミクロの電子回折像であった。電子顕微鏡の応用範囲は急速に拡大されていった。品質の改良に電子顕微鏡は不可欠となった。それはとりもなおさず、産業界にも直接電子顕微鏡が貢献することを意味した。

 風戸は電子顕微鏡による恩恵を一層拡げるべく、試料を加熱し、冷却して温度変化による材料の影響、試料を引っ張っての金属の破断状況の観測など、あらゆる画期的な研究を推進した。自社だけでできるわけはなく、大学との共同研究で行ったが、まさに産学研究の走りだったろう。それが良い結果につながった。

 学者が研究の成果を直ちに学会で発表するため、短期間に研究の評価を得て、それが日本電子の顕微鏡の優秀性を証明することになった。各学会から各産業界へ情報はすぐに伝わり、企業単位で電子顕微鏡は浸透するようになっていった。日本電子の国内における電子顕微鏡のシェアは順調に伸びていき、短期間の内に風戸は他のメーカーとの競争意識を忘れ、ひたすら理想の電子顕微鏡めざして前進した。

 日本電子は1949年から1954年(昭24~29)までの6年間に20種類の新型電子顕微鏡を作った。倍率の拡大、高電圧による透過力の増大、そのほか各種の機能を加え、世界的にも特徴の著しい「JEM万能型電子顕微鏡」を造り上げた。

 相変わらず高松宮は新しい成果が出るたびに日本電子を訪れて励まされた。

高松宮は海軍総帥だった縁で伊藤と密に諮り、折に触れて日本電子を訪ね、日本電子を強力にバックアップした。

高松宮は海軍総帥だった縁で伊藤と密に諮り、折に触れて日本電子を訪ね、日本電子を強力にバックアップした。

(第4章 「高松宮に救われ続けた日本電子」おわり)

久保島武志
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1967年出版社勤務。自動車レース専門誌「オートテクニック」でレースを支える人々や若手ドライバーのインタビューを手がけ、風戸裕のレーシングダイアリーを編集。1974年、レース中の事故による裕の死を契機にフリーとなり、早稲田編集企画室に所属。「週刊宝石」「週刊現代」等で様々なリポートに携わる。