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風戸裕の短すぎた生涯[23]第7章 「裕、不運な低迷の中でも輝きを放つ」⑤

photo:ビル大友・著「レクイエム風戸裕」より

 レース翌日から裕はBMWエンジンをミュンヘンに送り、GC第2戦の対策を考え、新規スポンサーまわりに飛び歩いてから渡英した。次のホッケンハイムがGRD273・BDAの初舞台だったが、BDAエンジンが冴えず、最後方からのスタートで、途中がんばったものの、オイルプレッシャーが低下、12周でストップした。翌週のスラックストン(イギリス)、第1ヒートはスタートで2速へ入れ損なうミスがあったり、スピンもあったが、裕の真骨頂とも言える追い上げを見せ、5位でフィニッシュ。久しぶりに観衆の大拍手を受けた。だが、第2ヒートは良いスタートをして快調に飛ばしたが、エンジン不調でピットイン。4周遅れになってしまった。

【登場人物】
風戸 裕=フジで事故死したレーサー。
風戸健二=その父。日本電子創業社長。

 なかなかトータルでうまくいかないところが裕らしいといえるのだが、「風戸裕のレーシングダイアリー」は裕の成長を見守る連載である以上、編集者の私としては細かいところでも、なぜギヤを入れ損なったか、なぜスピンしたか、厳しく自己分析し、対策を考え、次から絶対しない教訓とするところまで徹底した内容が欲しくて物足りなかった。一人で活動している限界だろうかと思った。F2でマーチが圧倒的というが、要するにGRDはまともな車は作れなかった。それに気づいていないはずはないのだが裕のダイアリーはいつも前向きだ。毎号見せ場なしの連載は本人が一番つらかったはずなのに。

 さらに生沢と組んだ「チームニッポン」が、途方もない労力とプレッシャーを与える話ばかり聞かされるようになった。つまり、GRDにはまともなエンジニアもデザイナーもいないため、新しいマシンを作るに際して、出来損ないに近いマシンを少しでも修正すべく、コンストラクターでもあるマイク・ウォーナーのために、裕自身がGRDのドライバーとして、ときにはエンジニアやデザイナーとして働かざるを得ない状況だった。そして、猪瀬の腕とカンが最後の頼りだった。

 4月29日の ニュルブルクリンク(西ドイツ)、3日前の26日から出かける。ここは裕がヨーロッパに来て初めて5位になったところだ。コースは昨年より良くなっていたし、エンジンは快調でタイムはかなり向上すると予測した。ところが、ここでも裕はミスを冒す。練習走行中小さなコーナーを大きなRのコーナーと錯覚して突っ込んでしまったのだ。「やばい」と思ったらもうコースアウトで、マシンをガードレールにぶつけ、かなりのダメージを受けてしまった。「あーどうしてドジなんだろう。大分自信喪失」。読者の反応ばかり気になっていた筆者は、「またか」と思ってしまった。

 このクラッシュの影響で28日のプラクティスはタイム8分7秒、21番目のポジションだった。「トップは7分30秒、どうしようもない」。自らを責め、原因を「どうも気分が乗らず」と記している。「今年はどのサーキットでも昨年よりタイムが悪い。一体どうしたのか。いろいろな条件も重なっているが、それにしてももう少しがんばらなければ」

 ここまで言うのが気の毒だった。「マシンが悪い」とは口が裂けてもいえないのだろう。当然、気分は「なんとなくスランプ」になるはずだ。だが、「走るとコーナーが恐ろしく見えてくる。何かテンポが合わない」、の記述にはドキッとさせられた。編集者としてはウツが心配になったのだ。が、さすがに裕もレースを長くやっているだけあって、「気分を変えるために徹ちゃんたちと過ごし、9時間も熟睡」、乗り越えたという。

 レース本番は朝から雨。コースに30台が勢ぞろいし、裕はコックピットでスターターフラッグに見とれていたらしい。なんとフラッグが降りないうちにみんながスタートしたため置いていかれてしまった。それでも徐々にペースアップし9位でゴールした。

 裕のレースにおける自信喪失はかなり深刻だったが、その気分を回復するのもレースだった。翌週の ポー(フランス)でも予選は18番目のタイムだったが、本番では積極的に前を目指し、また9位でフィニッシュ。裕は気分をリフレッシュして日本に向かった。

6月3日の富士グラン300キロをがんばるためだ。出場台数が多くて裕は予選落ちを心配しなければならないほどだった。心配する理由は肝心のマシンの調子だった。GRDS73は「あらゆる点で未完成の車」と裕も認めていた。素人が見てもスタイルが悪く、前面投影面積が大きすぎた。従って重く、パワー・ウエイトレシオが悪い。もう腕では克服しがたかった。予選は11位、6月3日の本戦第1ヒートこそ5位と及第点だったが、第2ヒートは11位で総合9位。これではスポンサーもファンも納得しないことが裕にもひしひしと分かっていたようだ。グラチャンは全5戦。そのうち2戦がマシンとエンジンのせいでパーになったのだから、裕はさすがに選んだ自分の責任を考えた。裕の見限ったBMWエンジンは2戦目から立ち直っており、これはF2とも関係するのだが、「風戸はBMWを見限って運に見離された」と言う人もいた。なんとかしなければならない。

 ありがたいことに、「体制建て直しを考えよう」と父や叔父など風戸家が提案してきた。
「金は出すから、もっとちゃんとした体制を作れ」のサインだ。裕は先輩・山梨信輔とメカニック・解良喜久雄に相談した。絶対的に求められたのは残りのGCで結果を出すことだった。したがって戦闘能力の高いマシンを短時間で仕上げなければならない。

 そこで解良がかつて仕上げた経験のあるシェブロンを購入する案を固め、裕は自らシェブロンを買い付けるために直ちにヨーロッパへ飛んだ。

 6月17日は西ドイツのホッケンハイム・リントメモリアルトロフィーレース。RSエンジンの調子が悪いのでコスワースのBDGに載せ換えたところ2分3秒5が出た。ストレートでさえワークスマーチに比べて決して遅くなかったので、裕は内心ワクワクした。

(つづく)

久保島武志
About 久保島武志 (65 Articles)
1967年出版社勤務。自動車レース専門誌「オートテクニック」でレースを支える人々や若手ドライバーのインタビューを手がけ、風戸裕のレーシングダイアリーを編集。1974年、レース中の事故による裕の死を契機にフリーとなり、早稲田編集企画室に所属。「週刊宝石」「週刊現代」等で様々なリポートに携わる。