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風戸裕の短すぎた生涯[25]第7章 「裕、不運な低迷の中でも輝きを放つ」⑦

photo:ビル大友・著「レクイエム風戸裕」より

 裕はまた一人で「にっぽん代表」と言い聞かせる。だが、9月16日のアルビグランプリ(フランス)でレース中エンジンが大きな音を発し、そのまま息の根を止めてしまった。ブロックになんと20cm四方もの大穴があいていた。シュニッツァーの親分ジョセフ・シュニッツァーは壊れたエンジンを見て、「いままでこんなトラブルは一度もなかった」などと責任逃れしか言わない。

【登場人物】
風戸 裕=フジで事故死したレーサー。
風戸健二=その父。日本電子創業社長。

 腹も立て落胆もした裕はこぼす。「やはりシュニッツァーもワークスBMWには及ばない。これでは来年もマーチBMWがトップを独占するのが目に見えるようだ」。クソいまいましいマーチ……。裕にしては珍しい愚痴だった。裕は険しい道を感情的な言葉を吐かずに黙々と歩いてきた。それが、マーチを裏切った自分には二度とチャンスが巡ってこないのではないかという、いまになって生まれた弱気の現れと私は感じた。

 シシリー後、日本に直行して9月2日の「富士インター200マイル」に臨む。シェブロンはBMWエンジンの調子がいまいちだったが、プラクティスではいままでのベストタイム1分47秒73まで詰めることができ、裕の気分は一気に爽快となる。ヒート1はオイル系統のトラブルで前半につまずき、またエンジントラブルでストップ。

 それでもヒート2ではエンジンが好調で、26番手からスタートしながら8周目には1分47秒5のベストタイムも出して4位にまで上がり3位の酒井正も射程内に入った。デッドヒートを演じつつ、あと2周というところで酒井マシンの真後ろにピタリとつける。が、最終ラップ、2位だった酒井のチームメイト・高橋国光が3位に下がって裕を押さえにかかった。ついに抜けはしなかったがゴールにはほとんど同時に飛び込んだ。観客も大喜びだし、裕自身、この最後があったせいか満足した。
 
 やっと裕はGCで結果を出した。10月10日の「富士マスターズ250キロ」レースにはF2仲間のグレーテッドドライバー、ティム・シェンケンとアンリ・ペスカロロも参加し、国内スポーツ紙やモータースポーツ誌は高橋国光と黒沢元治の元日産コンビの争いに焦点を当てていた。それが裕の闘志に火をつけた。走り出せばマーチBMWの高橋と黒沢が冴えず、シェンケン、ペスカロロも富士のバンクを含む特殊なコースにとまどい、中盤からレースをリードしたのは津々見友彦、田中弘、そして風戸裕の3人だった。

 29周目、裕は同じシェブロンの田中をS字のアウトから強引に抜きにかかる。裕の炎のような気迫は、必死でブロックするヒロムのハートに伝わり、ついに先に行かせた。さらに、裕はトップを行く津々見のローラT292に追いすがり、正面スタンドからも見えるヘアピンへの進入路で、わずかに先行するローラの鼻先、それもイン側にシェブロンを突っ込んだ。ぶつけることは許されない。津々見が一瞬でも裕を抑えれば裕はブレーキをかけるか自らコースアウトするしかなかった。しかし、津々見も裕の気迫を認め、わずかにハンドルを切って裕に先を譲ったのだった。あとはゴールの41周まで先頭を走り続け、裕は1971年の同じ日の同じ名前のGCレース以来、2年ぶりに優勝したのだった。表彰台の中央に、生気にあふれる裕の笑顔があった。

 ’73年(昭48)の締めくくりは11月23日の富士GC最終戦「富士ビクトリー200キロレース」だった。実はGRDのマネージャーがGC第4戦を見に来日し、ロンドンに帰ってからシェブロンに移籍するというハプニングがあった。当然、裕に関する情報をシェブロン首脳に伝えただろう。シェブロン社は直ちに裕に、イギリスですでに威力が証明されたシェブロンの新型スポーツカーを特別に提供しようと申し出てきた。

 非常に速いと聞いて裕は喜んだが、無償ではなかったため、節約を重んじる裕はメインフレームとリアサスペンションだけ送ってもらってセッティングした。その結果、ヘアピンのような低速コーナーでは格段にグリップが向上して速くなったが、逆に高速コーナーではB23特有のアンダー傾向は強くなってしまった。練習でエンジンを2基も壊してしまい、予選も13位と振るわなかった。それでも、レースでは大事故や、上位のストップがあり、鈴木誠一に次いで裕は2位に入った。全5戦中2戦を棒に振りながら最後の2戦でポイント40を稼ぎ出し、シリーズ3位に食い込んだ。

 このGC最終戦は非常に後味が悪かった。「サーキットヒーロー」(林信次・著)によると、決勝3日前の11月20日夜、サーッキットのガレージで火災が発生、2台のマシンが炎上・消失し、選手は誰も殺気立ち、異様なムードが漂っていた。また、予選タイムが驚異的に速く、「速過ぎる」と誰もが思っていたという。スタンディングスタート方式がとられ35台のマシンがシグナル・ブルーを合図に一斉にスタートした。団子状態でバンクに突入する、富士スピードウェイで最も危険な第1周で事故は起こった。中野は予選15位。生沢徹はその中野よりずっと後ろにいたがバンクには8位くらいで進入した。生沢の本来のラインはずっとバンクの上だったが、マシンがひしめいているため、無理に空いていた右下段に入っていった。ところが下段は傾斜が緩く、ハイスピードで姿勢を維持しながら走り抜けることはできなかった。しかも継ぎ目があった。生沢はスピンして左上方に突進してしまった。その先に大集団が走っていた。多重衝突が発生、中野のマシンが最上部のガードレールに叩きつけられ、炎上、満タンのガソリンを撒き散らし、炎を吹き上げながらバンク下に落ちていった。中野は焼死。24歳だった。

 亡くなった中野雅晴は裕と同じく生沢徹に憧れてレースを始め、裕とは16歳のときからのライバルだった。裕はこの、同い年で誕生日が10日しか違わない友の24歳での死を深く悼みつつ、ドライバー風戸裕として、高橋国光の提言する「中野自身ある程度死をも覚悟していただろう。騒ぐより教訓にしよう」という言葉に全面的に賛同していた。

 筆者は前年、中野雅晴にもしばらく原稿を書いてもらう機会があり、会えば喫茶店で話を聞いたものだ。中野は精密機器メーカー創立者の四男で、そんなところまで裕と共通していた。将来は父の持つホテル経営に進むことを決めていた。「僕にとってレースは通過点、いつでも企業人になる覚悟があります」、キザな言葉をもらすところがある一方、プライベートの相談まで聞くようになり、筆者は中野を無条件で応援するようになっていただけに、彼の死は強い喪失感を抱かせた。
(つづく)

久保島武志
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1967年出版社勤務。自動車レース専門誌「オートテクニック」でレースを支える人々や若手ドライバーのインタビューを手がけ、風戸裕のレーシングダイアリーを編集。1974年、レース中の事故による裕の死を契機にフリーとなり、早稲田編集企画室に所属。「週刊宝石」「週刊現代」等で様々なリポートに携わる。