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風戸裕の短すぎた生涯[30]第9章 「裕、あと一息でF1」①

1973年、ヨーロッパでのF2レースの合間に国内では人気絶頂の富士グラチャンに挑戦。

 猪瀬良一は’73年シーズン半ばに裕に起こった「事件」をおぼえている。

【登場人物】
風戸 裕=フジで事故死したレーサー。
風戸健二=その父。日本電子創業社長。

 当時のブラバムのF1チームオーナー、バーニー・エクレストンから裕に電話がかかってきたのだ。
「ブラバムのF1のテストをしてみないか」。それも何回か、かなり熱心に誘ってきた。

 それはまさに裕へのF1からのオファーに他ならなかった。当時ブラバムF1は2台体制で、一人は速いドライバーを乗せ、もう一人はスポンサー持込のドライバーを起用していた。そんな関係で裕に声をかけたのだろう。エクレストンといえば現在、この21世紀にF1界の支配者として辣腕をふるっている男だ。猪瀬はこの目利きのエクレストンが裕に白羽の矢を立てたことをこう受け止めた。「それだけ裕を買っていたからだ」。

 エクレストンが裕を、速いマシンと良いチーム体制が揃えば「必ずやる」と判断したのだ。裕の走りと、ヨーロッパでの人気がエクレストンにとって大きな魅力だったのだろう。

 もし’73年のシーズン半ばのあのときテストに応じていれば、エクレストンがブラバムF1のNo.2ドライバーとして裕を指名する可能性は高かった。もし、そのままF1に行って、本当の桧舞台で競えば裕はどうだっただろう。

「風戸とは随分話をして『無理する必要はないよ』ってことになった。興味は大きいけれど別のF2のワークスの話も順調に進んでいて、F2をこのままにしたくない気持ちもあったしね。実際、エクレストンに強く誘われて『これならあわてなくともF1に行けるな』って気持ちになった。風戸はもう1年F2でやっても遅くないと考えた。それに、日本はオイルショックですごく厳しく、裕にはとてもお父さんに『F1に乗るから』と新たな援助を申し出ることができなかったという面も大きい」
猪瀬は振り返った。

メカニックは裕のレースを終始支え続けた猪瀬良一氏。(ビル大友・著「レクイエム風戸裕」より)

メカニックは裕のレースを終始支え続けた猪瀬良一氏。(ビル大友・著「レクイエム風戸裕」より)


 ‘74年(昭49)、裕は3月13日で25歳になる。手紙で各チームと連絡を取って3月初めにロンドンに飛んだ。すでにGRDはマイク・ウォーナーがF2をやめ、F3製作を中心としていく気持を固めていた。それが、裕をGRDから解き放っていた。

 まず、ブラバムのバーニー・エクレストンを尋ねた。将来をにらんでさらにコンタクトを取っておきたかったからだ。意外やバーニーの裕への気持ちは少しも冷めておらず、再び、「ウチのF1マシンに乗ってみないか」と誘われて俄然気持ちが高ぶった。

 No.1ドライバーのカルロス・ロイテマンに加え、すでにNo.2ドライバーも決めていたが、ノンタイトルのF1レースで乗らないか、というのだ。しっかりしたチーム体制と優秀なマシンが揃わなければ勝てないことを骨身にしみて感じている裕とすれば、ブラバムは最高の環境にあると思えた。そのためにはノンタイトルレースだろうが、ブラバムでF1に出走することは願ってもないチャンスだった。裕は謝辞しつつ、とても満足だった。

 次に訪ねたのがシェブロンで、内心富士GCとの兼ね合いもあり、F2もシェブロンでと決めていた。ところが間の悪いことに、ボスのベネットは留守だったうえ、応対したスタッフが「ファクトリーとしてはジェームス・ハントの1台だけという方針が決まっている」と繰り返し、裕がシェブロンのF2に乗ることに全く興味がないという態度だった。

 裕は非常に落胆しながら次のサーティースに向かったのだが、こちらはボスのジョン・サーティースがいて愛想よく迎えてくれた。フェラーリでF1のシリーズチャンピオンになりながら、1964年にあのホンダF1チームに移って一勝した名ドライバーだ。日本への思いが裕に対する特別な好意として現れたのだろうか、サーティースは、「うちのF2チームのNo.2ドライバーにならないか」、と言ってくれて、裕をひどく喜ばせた。

 サーティースチームは、F2にはワトソンが乗る1台だけと決まっていた。それなのにサーティースはあっさりと言い切った。「ヒロシのためにもう一台F2マシンを出場させよう。スポンサーも探すさ」。裕はサーティースが自分を買ってくれていることに感無量だった。同行したメカニックの猪瀬は早速サーティースチームのメンバーに加わることになり、そのまま手伝う気になっていた。

「ボスのジョンは自ら世界チャンピオンになった人だけあって、ドライバーやメカニックに対して厳しいことが知られている。その彼が自分を認めてくれたのだからとてもうれしい。僕もサーティース学校に入ることになったが、これは今後の僕のドライバー生活にとって必ずやプラスになるに違いない」。裕はそう思った。

 ところがである、裕が自宅に帰るとシェブロンから電話が入り、平謝りした。「ぜひカザトをわがファクトリーのNo.2ドライバーに迎えたい」。「カザトはエンジンとタイヤの費用だけ負担してくれればいい。あとは一切我々がもつ」。そうまで言われ、とりあえず、猪瀬に電話すると、「そりゃあシェブロンだよ。日本もあるし、考えることないじゃん」、で決まり。土壇場のどんでん返しで、裕は丁重にサーティースに謝罪し、シェブロンと正式に契約を結んだのだった。
(つづく)

久保島武志
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1967年出版社勤務。自動車レース専門誌「オートテクニック」でレースを支える人々や若手ドライバーのインタビューを手がけ、風戸裕のレーシングダイアリーを編集。1974年、レース中の事故による裕の死を契機にフリーとなり、早稲田編集企画室に所属。「週刊宝石」「週刊現代」等で様々なリポートに携わる。