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風戸裕の短すぎた生涯[33]第9章 「裕、あと一息でF1」④

1973年、ヨーロッパでのF2レースの合間に国内では人気絶頂の富士グラチャンに挑戦。

 1974年(昭49)6月2日、「富士グラン300km」の日を迎え、富士スピードウェイには5万を超える大観衆が詰め掛けた。

 標高1000メートル以上の高原は真夏のような太陽が照りつけ、選手紹介でコントロールタワー前のコースに並んだドライバーたちの白いレーシングスーツがまぶしかった。正面スタンドに向かって椅子に座っているのだが、渋い顔の選手が多い中で、一人だけ裕が笑顔で周りの選手に話しかけ、とうとう後を向いて高原と冗談を言い合っているのが目立った。まるで少しでも座を明るくしようとでもいうように見え、そこだけ強い輝きに満ちていた。

【登場人物】
風戸 裕=フジで事故死したレーサー。
風戸健二=その父。日本電子創業社長。

 その日、裕のカーナンバーがそれまでの88から10番になっていた。理由を聞くと、レースの際のピット位置がナンバー順で正面スタンドから遠すぎるため、テレビ映りを考えて若いナンバーに変えたのだという。

 ドライバーたちにピリピリした雰囲気が立ち込めていた。ちょっとでも、いつもと違うことがあると気になって気になってしかたなかった。

 前年11月に起きた中野の事故の反省から、ローリングスタート方式がとられ、第1ヒートのローリングが開始された。長いマシンの列がペースカーに先導されてゆっくり動き出す。

 予選7位のゼッケン10、裕の白いシェブロンB26は、タイヤを暖めるべく自らを鼓舞するようにお尻を振り振り白煙の中に消えていった。

 最終コーナーに現れたペースカーがわき道にそれ、急に集団の音が高くなる。正面を通過するときは耳を刺す轟音がとどろき、風が起こり、目も覆いたくなる。全員が第1コーナーに向けて遠ざかる。

 この瞬間が一番怖い。団子状態でバンクに突入するために、中野の事故がいつ起きても不思議ではないからだ。コントロールタワー最上階でマシンを目視しながらしゃべるアナウンサーの声が一瞬消える。バンクでは何事もなし。S字コーナーを抜けて正面にマシンが現れた。

 ヘアピンで1台ずつもがき苦しむようにギヤを落とし、姿勢を変えるとテールが滑るほどパワーを一杯にみなぎらせてダッシュ。最終コーナーを抜けるとアクセルが目一杯踏み込まれ、正面スタンドを通過するときはパワーのあるマシンほどぐんぐんスピードが加わり、バンク手前では250km/h近いスピードになる。

 長くもあり、短くもあった15周のヒートが約30分で終わり、裕は5位。ピットで見守る全員の顔に安堵が広がった。もう順位などどうでもよい感じが伝わってきた。

 筆者は午後2時からの第2ヒートをバンクの先のS字コーナーで見るために地下通路を渡ってパドック側に出た。コントロールタワーで第1ヒートの正式結果のプリントをもらい、各チームのピットをのぞいているうちに、ドライバーズミーティングが始まった。20人近いドライバーが集まり、中央で競技長が話をする。全員のテンションが異常に高かった。

 第1ヒート後、「トップの選手のスタートはフライングではないか」という抗議が主催者に対して行われたが、主催者はこれを退けたのだ。それは一つの見方であるとしても、競技長の話を聞くべきドライバーたちの態度は異常だった。

 特定のドライバー二人が口げんかを始め、他のドライバーが険しい声で非難し、それにまたけんか腰で言い返す声が上がった。全員が冷静ではなく、とてもレースができる状態とは思えなかった。

 競技長は場の雰囲気を読もうとはしなかった。第2ヒートは行われることになった。

 数人の記者が裕を取り囲んで聞いていた。「こんな殺気立った状態で走るのは大丈夫かしら」。さぞやうんざりしているだろうと思ったのだが、「ヨーロッパだって同じですよ。みんな大変だから」、と返していた。レース間近で紅潮していたがクールな表情だった。

 やはり裕は落ち着いている、と感心した。

 他の記者が話をヨーロッパに振ると、「猪瀬さんによると、シェブロンF2の仕上がりがすごく良いみたいですよ」、と顔をほころばせた。楽しみなシェブロンF2カーによる裕のヨーロッパでのF2参戦は翌週6月9日に決まっていた。このレースが終わったら、すぐに羽田に向かうはずだ。

 筆者はサーキットの外周に出てS字コーナーの出口で待機する。第2ヒートのローリング第1周が始まった。
(つづく)

久保島武志
About 久保島武志 (65 Articles)
1967年出版社勤務。自動車レース専門誌「オートテクニック」でレースを支える人々や若手ドライバーのインタビューを手がけ、風戸裕のレーシングダイアリーを編集。1974年、レース中の事故による裕の死を契機にフリーとなり、早稲田編集企画室に所属。「週刊宝石」「週刊現代」等で様々なリポートに携わる。