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風戸裕の短すぎた生涯[22]第7章 「裕、不運な低迷の中でも輝きを放つ」④

photo:ビル大友・著「レクイエム風戸裕」より

 ‘73年(昭48)は第一次オイルショックの影響で日本のレース界も激動の年となった。’71年のニクソンショックによって1ドル360円が一気に1ドル約310円となり、ただでさえ輸出産業は大打撃を受けていたからだ。自動車メーカーは、「この非常時にガソリンを無為な遊びに消費する」と、世間から批判されることを恐れ、自己規制を敷いたため、ワークスチームのレース活動は影を潜めた。

 一方、富士スピードウェイのグランチャンピオンレース(GC)は最初のピークを迎え、賞金も良いため、プライベートドライバーがこぞって参加するようになり、その相乗効果が認められて新たなスポンサーも加わった。キャノン、モービルオイルなど、裕のスポンサーもヨーロッパだけでなく裕に日本のGCレースへの出場を求めるようになった。さらにブリヂストンが裕や生沢徹など6人のドライバーにGCレースのタイヤを無償供与するほか、専属料として年間1500万円も払おうというプロジェクトを打ち出してきた。とても断れる話ではない。日本のGCとF2にフル出場することとし、裕はGCには最も戦闘力の高いBMWエンジンを載せたマーチで、F2にはGRDで臨むことにした。

 この年、筆者と裕は新たな接点を持った。筆者が担当する「オートテクニック」誌のページに、裕が「レース日記」を連載することになり、裕に毎月原稿を送ってもらうことになったのだ。筆者は裕の日常がどれほどハードなものか想像することができず、毎月の締め切りを守ることを約束させた。「風戸裕のレーシングダイアリー」と題した連載は裕がエアメールの専用紙にボールペンで、出来事や気持ちを書いてきた。疲れきったときには乱れて判読不能ということもあったが、律儀に、締め切りは守られた。

 第1回はGC用のマーチBMWをGRDに換えた事件についてだった。
《東京のル・マン商会の花輪さん(知夫社長)が月曜日にロンドンに来た。翌日の朝5時ころ電話がかかった。東京のマネージャーの稲垣君からだ。まだ眠いところなのに、内容がショックで目が覚めた。日本に送られた4台のマーチ・BMWのうち走り出していた2台が両方ともエンジンがいかれてしまったらしい。風戸レーシングもマーチBMWを買っているからこれは大変だ。早速、さっきまで一緒だった花輪さんを電話で呼んで内容を伝える。稲垣君もしょぼくれた声だったが、僕もおちおち寝ていられなくなった。2台走って2台ともエンジンが壊れたのでは根本的な欠陥ということになりそうだ。しかし、南アフリカのスプリングボックスではエンジントラブルはなかったし、今年のマーチのF2もテストは好結果で、南フランスのポールリカードで行われたテストランではF1のラップタイムより1.09秒早い。(中略)その間エンジントラブルは一度もないのだから、日本に行っているのだけそんなに壊れるなんて信じられない──’73年2月》

 裕は新たにマーチBMWを購入し、山梨信輔とメカニックの解良喜久雄に任せることにしていたから非常に深刻に受け止め、急遽マイク・ウォーナーに頼んで新GRDS73を富士へ運んだ。マーチに関して、もしBMWエンジンに根本的問題があるなら、いまさらいじっても遅いと判断、GRDも準備したのだった。BMW本社は「コンロッドに問題がある」と連絡をよこし、オーバーホールを主張したが、時間もなく裕はそのままマーチの走行を始めた。予想通り走行中、突然「ガッ」と音をたて、白煙を吐いてストップ。完全にエンジンブロックがえぐれ、半分切れたような状態だった。マーチはこれで終わり。その時点でヨーロッパの猪瀬が帰国、GRDを突貫作業で仕上げ、走ってみると、まあまあで、BDAエンジンも裕には合格点だった。

 3月18日(日)の決勝。裕はすっきりした気持ちでスタートを迎えた。だが、ローリングが開始されると、スターティンググリッドに置いてけぼりを食う。トランジスターボックスが壊れていたのだ。急いでスペアをつけてスタートする。裕は「優勝争いから落っこちたな」とがっくりしたがローリングは裕を待っていてくれた。

 後に、富士スピードウェイでGCレースシリーズの事務局長を務めていた日本モーターレーシングセンター代表の本田康介に話を聞いた。スタートが大幅に遅れた風戸のGRDを、本隊がローリングしながら1周以上待ったが、これは、レース主催者が指示したことだったという。つまりスポンサーの意向などによる特別のはからいだった。それは意識的に生沢と、風戸を応援したからだという。

「この二人を『特に必要』としたのは、僕個人の考えではなく、広告代理店やテレビ局の意向でもあった。急にGCシリーズがドーンと大きくなり、電通と当時の東京12チャンネル(現テレビ東京)が全面的に我々の世界に入ってきてくれて、午後8時からのゴールデンタイムに放映したこともある。風戸君を大事にしたのは彼らなりのテレビメディア的な考えもあったのだろう。テレビの視聴率もあったし、観客の何百人調査、観客意識動向調査などを行い、そこでやっぱり風戸君は強く、その反映だった」

 契約は決まったレースに出ること。それを前提に当時のプログラムやポスターも、テレビの事前告知なども生沢と風戸が中心だったという。裕は人気では日本のトップの座にいた。

 レースで裕は無理せずにバンクに突っ込んでいったのだが、突然馬の背でGRDは4~5m横に飛んだ。裕は用心しながら走る。すると、S字を抜けるところで、また激しいオーバーステアに襲われる。これはおかしいとそのままゆっくりと走り、1周目からピットイン。ウイングが完全に吹き飛んでいた。結局リタイヤ。日本の、スポーツカーによるGCレースでもマーチを捨ててGRDを選択したが、その前途も多難なことを痛感させた。

(つづく)

久保島武志
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1967年出版社勤務。自動車レース専門誌「オートテクニック」でレースを支える人々や若手ドライバーのインタビューを手がけ、風戸裕のレーシングダイアリーを編集。1974年、レース中の事故による裕の死を契機にフリーとなり、早稲田編集企画室に所属。「週刊宝石」「週刊現代」等で様々なリポートに携わる。