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風戸裕の短すぎた生涯[8]第3章 「裕、自動車レースに魅かれる」③

 裕と風戸は初めて向き合い、レースについて話し合った。風戸は頭ごなしに「レースをやめろ」
とは言わないが、危険の伴うレースには反対であることを明言した。「今は学生として勉強に身を入れるときではないか。現在の過ごし方では将来にも影響する」
 

【登場人物】
風戸 裕=フジで事故死したレーサー。
風戸健二=その父。日本電子創業社長。

 

 裕は必死で、反論というより懇願を繰り返した。

「勉強はします。でも、もう少しレースをやらせてください。僕がやっと出会えた、本当に打ち込めるものなんです。レースは遊びかもしれませんが、何か自分にとって得るところがあるんです」

 裕は涙をため、ついには嗚咽し、風戸の目を見つめて身をじるようにして懇願した。

「なんだろう、この目は」。風戸は裕のその燃えるような意思を訴える目に吸い込まれるようだった。「ああ、俺のあのときの目」。海軍技術研究所に行きたくて、熱い、燃えたぎるような思いを上司の矢次に訴えたあの日の自分がダブる。

「人間的にも僕を高めてくれる気がするんです。どうかもう少し納得できるまでレースをやらせてください。お願いします」

 開かない扉を開こうと、裕の拳が風戸の胸を叩いている気がした。

「レース……、レースに命をかけるというのか? そんな馬鹿なことは理解できない」

 許すべきではない。だが……。これはやめさせられないな。

 風戸は首を振りながらも妥協してしまった。危険な陸送のアルバイトはやめさせ、必要な金は出すことにした。釘だけはさしたが。

「お父さんはあくまでもレースに反対であることは忘れないでほしい。もっと自分のことを考えればレースはすべきではないとわかるはずだ。また、お金については以後一切、お母さんにねだってはいけない。必ず書面に記してお父さんに相談しなさい。認められるものは出すが、無駄遣いは許さない」

《 3日後にNETスピードカップをひかえて何と悩み多いことか。借金の苦労や学校。親父との間の行き違い……、もうレースで死んでもいい。いっそ死んだほうが楽だ。将来に対する不安。自分に対する不安。全部面倒だ! しかし俺は男だ。今度はやる! 俺は一体何になるんだ。レースは単なる遊びか? やめてしまえばよいのか? 分からない》

 裕は1968年10月17日の日記にこう記している。裕の中では父から単に猶予期間をもらったという、居心地の悪い気分だった。父との話し合いで、裕は何のためにレースをするのか、突き詰めて考えざるを得なくなっていた。「死」という言葉に唐突な感じを受けるが、裕はすでにグランプリでレースでの死を体感していた。しかも世界ではF1チャンピオンで“天才”と謳われたフライング・スコット=ジム・クラークがあっさりと事故死したのを皮切りに、L・バンディーニ、マイク・スペンス、ジョー・シュレッサーといった名選手が毎月のように死んで、一般の日本人はレースを“死に一番近いイカレた若者たちの遊び”と思うようになっていた。裕自身も、レースの忘我の瞬間を知ったことで死がごく間近にいることを実感していた。

 しかし、レースになれば嫌な気分は忘れて全力を出しきった。裕は確実にステップアップしていった。9月のダイヤモンド・トロフィーでは総合5位、クラス優勝を遂げたし、クラス別富士チャンピオンレースシリーズには12戦中5戦に出場、10月2位、11月3位、12月3位と確実にポイントを上げ、年間3位で表彰された。

 神山チューンのS8仲間にはトップクラスのドライバーが揃っていたが、彼らとの模擬レース方式での練習は大いに役立った。裕は半年の間にコーナリングや前の車を抜く技術に磨きをかけ、エンジンの限界までアクセルを踏むようになり、ついに神山チューン車の先頭に立っていた。神山がゾッとする思いとともに裕の成長を実感したのは、10月20日に行われたNETスピードカップレースだった。レース中の裕のラップが2分22秒1を記録したのだ。これはホンダS800のレコードだった。しかも宿敵ニッサンのフェアレディのタイムを超えた。その代わり、コーナーにフルスロットルで突っ込むクセはそのままだったために、足回りに負担がかかりすぎた。風戸のS8は、ホンダのパーツでは限界に来ていた。神山は多くの客を抱えていたが、彼自身がレースにのめりこむためにショップの経営は苦しく、岐路にあった。神山は決心した。

「風戸でレースを終わろう。あいつと、とことんやってから……」

 ところが裕はさらに上を望むようになっていた。

 裕はフォーミュラカーにも憧れていた。世界のF1グランプリレースはもちろん、日本のJAFグランプリも葉巻型のフォーミュラカーがメインレースを走る。しかし、フォーミュラカーそのものが日本には数台しかなかった。ところが、ホンダ技研が研究用に何台か購入していたブラバムBT24(フォーミュラ3)を放出するという。神山も自分のレース人生の成果をフォーミュラで証明したかった。それに、技研社員が「我々にしかブラバムにホンダS800のエンジンをマウントすることはできない」と自慢していたのが耳に入り、神山を熱くさせた。「何を言ってやがる。俺の腕をみせてやる。風戸で最後の勝負をしてみよう」。裕も神山からブラバムが買えることを聞いて興奮した。しかし、金について、「出せるか」と聞かれれば、「おやじから金は出ません」と言うしかなかった。

 ところが神山は自腹で200万円を支払い、ブラバムを購入してきた。

 裕は現物を見ると目の色を変えた。

「誰が乗るんですか」
「おまえだよ」
「でも金は」
「少しずつ払ってくれればいい」

 裕は考え込んだ。父親から、いくらまでなら出してもらえるだろう。それを30万円と読んだ。そこで、神山と交渉し、30万円の内金、あとは不定期、金額不定の分割払いで手を打ってもらうことに漕ぎつけた。

 裕は父親に、30万円で買える車がある、と必死で頼み込んだ。

《3日前に神山モータースにあるブラバムについて話を決めた。一昨日父に話すと大丈夫そうなことを言っていた。今日また話すと完全に買っても良いことになった。なんと良い父をもったことか! 数日前までブラバムを買うなど思っても見なかった。これでスポンサーをつけて本格的なレース活動ができる。もう一生レースを離れることはできないのか。ふた月もレースをしないとたまらなくなる。1ヵ月前まではレースをやめてしまおうと思っていたが、この有様である。明日は後期試験がある。前期は予定通りだったので、あとは後期にかけるだけだ。両親の手前、なんとしても2年にならないと……》

 その翌日、トヨタのワークスドライバー福沢幸雄がトヨタ7のテスト中に事故死した。福沢諭吉のひ孫でギリシャ人とのハーフ、彫りの深いノーブルなマスクとスタイルの良さから人気も定着していた。ファッション業界の事業家としても認められつつあり、日本スポーツ界最高のタレントだった。福沢の死は裕にとっても、家族にとっても衝撃だった。

 直ちに家族会議がもたれ、裕はレースを控える約束をする。

「危なかった。父に30万円出してもらう話が一日遅ければ、絶対だめだったろう」

 家族会議でその金のことが持ち出され、裕は焦った。だが、風戸は約束したことだからと、その話は蒸し返さなかった。その代わり、レースを続けることをもう一度考えるように強く求めた。瑞枝もやめてほしいという。裕はその気持ちがわかるだけに、レースを自粛する約束をして家族を納得ささせた。

 実際に4月までレースには出なかったが、ブラバムホンダは着々と仕上げられた。その間、日本レーシングマネジメント株式会社(菅原義正社長)から持ち込まれたオリエント時計のテレビCMのために富士スピードウェイで3日間走って5万円稼いだり、国際A級ライセンスを取得したりした。

 日記には、「何も特別な悩みはない」、の言葉が2回記された。それでも丸々3ヵ月間レースに出なかったことで、裕の内省は真剣みを帯び、日記の内容も周到になっていった。

《ブラバムの購入に当り借金がある。いつ何時事故にあうとも限らないので、記入しておくことにする。うそをついて申し訳ないが次のとおりです。

・神山モータース ブラバム代金のうち、105万円未払い。
・太陽商会 タイヤ代約12万円。もし事故がおきたときにはこのノートを見てください。見て下さいといってもわからないかもしれませんね。幸いにしてこの文章を見つけたら読んでください。最近の考え方や気持ちをなぐり書きですが書いてあります。馬鹿な息子を持ったとあきらめて下さい》

 ブラバムホンダは素晴らしい仕上がりだった。4月6日の富士ゴールデン300キロ第1戦で総合2位に入った。予選タイムは2分15秒58。ずっと軽量化され、空力抵抗も向上したとはいえ、ホンダS8と同じエンジンで、7秒ちかく短縮した。

 フォーミュラカーでは、むき出しのタイヤが四隅を占め、中央にあるのはむき出しのエンジンで、裕はその前に座る。かろうじて頭を出してドライブするため、タイヤと同じ高さにいるのが実感だった。ときにはすさまじい風圧を直接顔に感じながら走る。しかも、それまでと異なることばかり。ハンドルに全く遊びがなく少し動かすだけで鋭く身体ごと向きを変え、アクセルもクラッチもブレーキもペダルが強度を増したため、蹴とばすように踏まなければならない。エンジンは比べものにならないほどアクセルに敏感に反応して加速するし、ブレーキも強力だった。

 初めてドライブしたとき、裕は青ざめ、緊張で手が震えているのをボーグルズの仲間は見た。サーキットのコーナーごとにギヤチェンジを繰り返すのだが、クラッチのミートがうまくいかず、ブラバムはギクシャクした走りで、タイムも話にならなかった。徐々にスピードが出てくると、ホンダS8とは全く違うドライビングが求められた。別次元ともいえるブレーキング、コーナリングに合わせてコースどりも自然に変わるが、そこからまともに走らせ、タイムを縮めていくまでには、裕は常に恐怖と戦い、ひたすら集中して身体に覚えさせるしかなかった。裕は黙々と走り続けた。

 さらに5月3日のJAFグランプリに向けて神山との二人三脚は続けられた。セッティングを少しでも変えたときには、裕が乗る前に、必ず神山が自ら乗って走り、危険や不具合がないことを確認した。それは、テスト前の車には裕が首を振って絶対に乗らなかったからだ。神山はそれを、「風戸が自身を冷静にみつめ、分を弁えていたから」と理解していた。トヨタ7で死んだ福澤幸雄はテストドライバーを兼ねていたが、裕はテストする能力はなかった。無理をして事故を起こせば、父親との約束を破ることになる。約束だけは守ろうとする裕の気持ちも神山は納得できた。実際、ちょっとしたフィーリングの違いからドライビングを誤ることもあるし、部品の変更などが予期せぬ致命的な逆効果をもたらす可能性もあった。神山なら対処できるし、二輪出身のチューナーには、ある程度の車までは自分で乗って仕上げることが当たり前になっていた。それに、神山は裕が首を振れるのは自分との絆の深さと感じていた。

 5月3日、裕はJAFグランプリにダブルエントリーした。前座のGTS-クラスⅠレースにはホンダS800で出場した。レース界で「S8の風戸」と呼ばれるようになっており、S8の一等賞を決めるこのレースに裕は欠かせなかったからだ。エンジントラブルで途中リタイヤしたが、存在感は十分に示した。また、神山のチューンしたエンジンが出場車の最多を占め、神山の技術が頂点にあることも見せつけた。

 一方、メインレースに出場したブラバムホンダは予選2分11秒65で14位につけた。予選1位の三菱ワークス製コルトF2C(1600cc)を駆った生沢徹は1分53秒81で、これだけスピードとパワー、そして腕に差のあるマシンとの混走だった。35周、1時間を超えるバトルを戦い抜き、裕は、常に積極的でコンスタントな印象を与える走りを続け、総合7位、C-Ⅰクラス2位に入った。大満足だったが、さらに最も賢い走りをしたドライバーと優れたマシンおよび耐久性の高いエンジンの組み合わせに贈られる「性能指数賞」とともに、賞金14万円まで獲得してしまった。

 この受賞の瞬間、裕は、単に腕の良い速いアマチュアドライバーではなく、頭もあるドライバーとして日本のレース界全体から認定されたことになる。それは神山にしても同じで、自動車メーカーの技術者たちに頭脳と技術で負けていないことを認められたのだ。レースにキリをつけるつもりの神山にとって、最高の勲章だった。「祭は終わった」。そう考える神山だったが、予想外の受賞に興奮した裕の思いは全く逆、「よし、これからだ」。

 神山が別れを切り出す前に、裕は屈託なく言い出した。「フォーミュラを改造して、グループ7をやらせてください」。グループ7カーとはレース仕様のスポーツカーのこと。裕のレースにかけるひたむきさに若いころの自分をダブらせてしまった神山は断れなかった。日本にすでにあったCAN-AMレース仕様のマクラーレンのサイズを縮尺したスタイルとし、シャシー幅を広げ、シートを少し横にずらし、助手席にも規格のシートをはめ込んだ。グラスファイバー製のカウル(車の外被)は専門業者に外注(20万円)した。

 6月29日、富士300キロゴールデン第2戦、ホンダ・ブラバム7は「コーヤマスペシャル」の名前でデビューした。雨のレースとなり、裕は意欲的に上位を狙ったが、後続車に押されてスピン、ピットインして応急修理して再びスタート、総合9位、クラス優勝でフィニッシュした。裕が間違いなく若手のアマチュアドライバーの一番前にいることをレース関係者に印象付けた。
(つづく)

久保島武志
About 久保島武志 (65 Articles)
1967年出版社勤務。自動車レース専門誌「オートテクニック」でレースを支える人々や若手ドライバーのインタビューを手がけ、風戸裕のレーシングダイアリーを編集。1974年、レース中の事故による裕の死を契機にフリーとなり、早稲田編集企画室に所属。「週刊宝石」「週刊現代」等で様々なリポートに携わる。