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本を買うという行為についての妙な考察みたいなもの

 私の家にはあちこちに本があふれかえっていて、天井までの本棚にも入りきらず、部屋の各隅に小山が出来たりしているのだが、その本の山で目につくのが、読んでない本がやたらに多いことである。途中まで読んだ本やら、最初だけ読んだ本やら、まったく読んでない本がそこらじゅうに転がっている。

 なぜ本が途中までしか読んでない状態で放り出されるのか。それは、まだ読んでる途中の本があるのに、本屋に行くとまた読みたい本が出て、つい買ってしまうからである。さらに仕事で読まなければいけない本もよく発生するから、また別の本に手を出す。するとまた読み終わらないうちに、次は何の本を読んだらいいか、もう分からなくなり結局また別の本を入手してしまったりする。

 思うに、本というのは購入するときが一番気持ちいいのであって、本を実際に読むという行為はおざなりな後戯のようなものではないか。本を買った瞬間に、ひとつの世界を入手したような快感を一瞬で味わうが、実際にそれを読み切るのは時間がかかるから、時間と心にゆとりがあるときでないと心がせいて、また次の快感(別の本を買うこと)を味わいたくなるのである。

 一番いけないのは一度に複数の本を買うことである。これは実に気持ちいいのだが、3、4冊も本を一度に買うと、最初の1冊はまあ読んだとして、残りの2、3冊は読まないことが多い。最初の1冊を読み終わるころには、どんな本を読みたいかという気分が変わっていて、また別の本を買ってしまうからである。だから私はある時から心がけて、なるべく一度に1冊しか買わないようにしている。それでもついつい時々まとめ買いをしてしまうが。

 結局、本も野菜や魚と同じで、買ったばかりのものをすぐに味わうのが一番楽しい。「この本が読みたい」と思ったその気持ちが、一番いきいきと保たれているからである。それに対して、読まないまま家の隅に積まれている本は、「この本読みたい」という気持ちがもう色あせているから、いまいち魅力が薄い。しかし、そういう読んでない本があふれていると、これを読まないともったない気につねにさいなまれるのが、困りものである。

 ところで、よくあるのが読み途中の本を家の中のどこかに置いて、置いた場所が分からなくなり、探しまわる行為。これを私は年中繰り返している。そんなときに限って前に探していた本が見つかったりする。本が山ほど家のなかにあるのだから、諦めてほかの本を読めばいいようなものだが、そのときは探している1冊の本しか頭にないから、ほかの本では満足できない。困ったものだ。

 さて、ここまで書いてきて思ったのだが、この文章の「本」を「女」に置き換えると、とんでもない文章ができあがる。しかし、ここで書いているのは本のことだから、あくまでまっとうな行為なのだ。してみると本を買うというのも何かの代替行為なのかもしれない。

About 俵はるぞう (9 Articles)
あちこちの媒体に執筆する謎のフリーライター。このペンネームは本ブログのための仮の姿だという噂も。