移民都市・深圳をゆく その4「“経済特区”深圳の生みの親──鄧小平」
現在の深圳の発展を語るうえで、切っても切り離せない人物がいる。1970年代終わりから80年代終わりにかけて約10年もの間、最高指導者として中国に君臨していた鄧小平(トウ・ショウヘイ)である。鄧小平が1979年から推し進めた改革開放路線により、外資を呼び込むための4つの経済特区が誕生し、深圳はそのうちの一つとなった。以来、深圳は経済的な大発展への道を歩んでいったのだった。
経済特区の中でもっとも発展した深圳
のっけから余談になるが、鄧小平の鄧も深圳の圳も、どちらも日本の常用漢字に入っておらず、めったに使われることのないJIS第3水準漢字にようやく入っている。パソコン表示の仕組みはよく分からないのだが、これらの漢字は古いOS(?)によっては文字化けする可能性があるようで、「トウ小平」「深セン」などという書かれ方をすることもある。というわけで、鄧小平と深圳は深い関係にあった……などということはない。
ちなみに中国でも、鄧の字は名字にしか使われないようだし、圳の字も辞書で調べると「(方言)溝、用水路」という意味があるようだが、実際には深圳という組み合わせでしか見たことがない。
余談が長くなったが、経済特区というのは、ものすごく簡単に説明すると、外資を呼び込んで経済発展させるために“法人税とかマケとくから、進出してきて〜”と、外国系企業に対して税制などの面でさまざまな優遇政策を行なう地域のことである。
中国の最高指導者に就いてからアメリカや日本などを視察した鄧小平は、自国の遅れぶりを実感し、「このままでは中国はアカン、階級闘争などやってるヒマなどない」と、経済改革を進めることを決意し、その一つが経済特区の設置だったというわけである。
経済特区には、外の世界との密接な関係を持つ4つの地域が選ばれた。当時はイギリス領だった香港に隣接している深圳、ポルトガル領のマカオと接する珠海(ジュハイ)、多くの華僑・華人の故郷である汕頭(スワトウ)、そして海を挟んで台湾の対面にある福建省の廈門(アモイ)である(のちの1988年には、広東省の一部だった海南島が独立した省となり、経済特区に指定されている)。
この4つの経済特区のなかで、もっとも大きな発展を遂げたのが深圳だった。やはり、すでに経済的に発展していた香港と陸続きだったことが大きかったのだろう。
「来了就是深圳人」の意味するところ
経済特区に指定されてからの深圳には、仕事を求めて中国全土から人々が集まり、人口3万人ほどの漁村から、たった30年ほどの間に1千万人超の大都市へと、猛烈な勢いで発展していった。今では経済的に北京・上海・広州と並ぶ中国第4の都市にまでなっている。
さまざまな地方から来た人たちが集まっているので、それぞれのお国言葉で話していてはコミュニケーションもままならない。そのため、深圳は広東省にあるにもかかわらず、メインの言葉が広東語ではなく、中国の標準語である「普通話」となっている。
深圳はこのように歴史のない“移民都市”として発展しているため、いわゆる“地元の人”というのが少ない。筆者も5年強に及ぶ深圳生活の中で、深圳生まれの若い人に会ったことがあるが、彼らの両親は深圳以外のところから来た人で、深圳に代々住んでいたという深圳人には一人しか会ったことがない。
深圳の至るところで「来了就是深圳人」というスローガンを見かける。これは「来たらあなたも深圳人」というような意味。つまり、深圳に来れば誰でも深圳人になれるということで、歴史ある都市のような排他的な雰囲気はまったくなく、深圳に来れば誰でも平等に発展するチャンスが与えられるというわけだ。
そういう意味では日本人も彼らと同じく外から深圳に来た人なわけで、それほど外国人扱いされることもなく、こちらから飛び込んでいけば、彼らの仲間として受け入れられる(という印象を持っているのは筆者だけかもしれないが……)。
タイトルとはまったく関係のない方向に話が進んでしまったが、あと3年もすれば、深圳は経済特区制定40周年を迎える。10年の節目ごとに以前とはまったく違う姿になっているほど発展のスピードが速い深圳。次の10年はどのような姿になっているのだろうか。