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風戸裕の短すぎた生涯[2]第1章 誘導ミサイル「噴竜」②

ヨーロッパF2レースでの風戸裕 ─ビル大友著「レクイエム風戸裕」より─

 風戸は最初自分がレースに反対したときの裕の顔が忘れられない。「レースは自分が初めて打ち込めるものなんです。レースには何かがある。自分を高めてくれる道なんです」続けさせてくれるよう必死で風戸に迫った。やがてその目には涙が浮かび、ついには嗚咽した。その裕の顔に風戸は若い日の自分自身を見てしまった。裕の気持ちが揺るぎないものであると分かってしまった。裕が「レースを極めたい」という燃えたぎる思いに身をよじり、風戸の胸板を激しく叩いている気がした。風戸自身、やむにやまれぬ思いに駆られ、命をかけるつもりで“日本帝国海軍の常識”という門戸を叩き続けた日があったから。

【登場人物】
風戸 裕=フジで事故死したレーサー。
風戸健二=その父。日本電子創業社長。

 風戸健二は1917年(大正6)、千葉県茂原に生れ、海軍機関学校を卒業。1938年(昭13)11月、海軍少尉として初めて『長門』に乗船、次に『伊号第71潜水艦』を経験し、’40年11月から1万トンの巡洋艦『妙高』の機関長になった。

 太平洋戦争が始まると、’41年(昭16)2月にはスラバヤ沖海戦に遭遇した。風戸は日本軍の大砲が敵に全く当たらないことに、驚き、ついにはあきれ果てた。弾薬庫が空になるまで撃ち、熱くなりすぎた砲身を換えて撃ち続けても、敵の飛行機(B27)は何事もなく飛びまわり、逆にこちらは魚雷で止めを刺されてしまった。

 アメリカの飛行機を抑え込まなければこの戦争に勝ち目がないのは明らかだった。無念でならず、飛行機を叩き落とすロケットによる戦闘を思いつき、その開発製造に加わることを夢想するようになっていった。決して異端児ではなく、クソまじめな軍人で、同僚がくつろいで冗談を言いあったり遊びほうける日曜の午前中も、エンジンの勉強をするかロケットについて一人瞑想していた。周りの同僚のペースを全く気にかけない性格は初めからで、常にわが道を行く態度だった。だが、ロケットのイメージは日ごとに明確になる。

 1942年(昭17)6月に帰国、戦艦『陸奥』に機械分隊長として配属され、ミッドウェイ、さらに南太平洋を転戦した。その実戦のさなかに、風戸はドイツのV2ロケットについての噂を耳にした。すでに頭には爆弾そのものを操作する誘導型ミサイルらしきものをイメージしていたため、本格的に研究したいという思いが体を熱くした。それには海軍技術研究所に行くしかない。

 このときの上司、機関長の大佐・石田太郎が1943年4月、新設の清水高等商船学校の首席配属武官として就任するに際し、4人の分隊長の中から風戸を指名し、うむをいわさず補佐として連れて行くと決めた。風戸は石田に信頼されていたわけだが、仕事が早く正確で独創的なことが一因だった。後任の機関長から、「降ろさんぞ。あれを完成するまでは」と、ヒステリックに迫られ、風戸ははじめ何のことか理解できなかったが、陸奥の修繕マニュアルのことだった。それは部下を動員してすでに半年も前に完成させていた。しかも全体から各部、細部に至るまで、機械の素人でもよくわかる自信作だった。

 ’41年に結婚した幼なじみの瑞枝との新婚生活を商船学校の官舎で送ることになった。

 学校では訓育部長補佐として第1期生600人に訓育の講義と体育指導を行った。体育には相撲が重視されて、土俵が24もあった。風戸も相撲を取る。息を切らすこともなく次から次へ、育ち盛りの生徒を10人も投げ飛ばした。

 後に知ることになるのだが、石田が強引に風戸を清水に連れて行くことがなければ、海軍は風戸の次の任務として南方に赴く護衛艦隊の参謀を予定していた。

「一つでも人との出会いが狂えば後の私はなかった」

 風戸にとって、石田との出会いがその最初だった。

 石田が南方の戦場の民政部政務部長に転任し、その後任として送り込まれたのが大佐・藤野清秀だった。藤野は軍人ではあったが、戦後には多くの信奉者を持つに至る東洋哲学の具現者でもあった。彼は中国関係で活躍したが、汪兆銘政権に日本海軍から補佐官として送り込まれ、中国人に信頼された唯一人の日本人として語り伝えられている。藤野について話すとき風戸の口調は熱くなった。

「彼の東洋思想は徹底していた。相手を尊重し活かすというようなことだが、観念は理解できても真似できるものではない。あのときの汪政権に対する日本の立場からすれば、それこそ威圧的だったり、見下したりといった態度をとる日本人ばかりだったのだが、藤野は常に100パーセント対等だった。私も軍人で、ただ日本のみが強いと教えこまれていたわけで、根底から恥じて敬服し、彼の思想を体得していった。当時の海軍にあって藤野は異端の人だったろう。海軍とか日本の枠に入らない大人の風格があった。その風格はなくとも、私にも彼の思想を受け止める素質があったのだと思う」

 藤野の哲学は学校経営にも発揮された。清水商船学校は、神戸と東京の商船学校が合併されてできたもので、教官の大半は商船学校出身の予備海軍士官だった。形の上で海軍武官が上席に並んだが、藤野は教育の主体を商船学校の先輩たちに委ねることを強力に主張した。これは風戸の眼には新しく、それこそビックリする大きな考えだった。

 藤野のそばにいるだけで風戸は、海軍も日本も超越した本質的な人間であるべきことを教えられた。考えを根底から改め、本質を見る目を養っていった。それはきわめて合理的な、日本人の常識からは掛け離れたものだったという。地位も年令も超越した人間関係もその一部だ。以後、風戸は上官だろうが誰だろうが恐いものがなくなってしまう。

「藤野さんから以心伝心、本質的な生き方を感化された」

 風戸は藤野の下で働いたこの時期に生まれ変わった。風戸は自分の思いを始めて口に出す。

「藤野さん、日本はアメリカの飛行機を打ち落とさなければ勝てません。私はこの対空兵器の研究をやりたい。海軍技術研究所に入れないでしょうか」

 藤野もまじめに受け止め、人事部に話をしてはくれたが、「もう一つ段階を置こう」という人事部に押し切られてしまった。とはいえ、風戸は厳しい軍律の中で15歳も年上の藤野と奇妙な一体感を味わって過ごした。

 それもつかの間、風戸は1944年(昭19)7月、徳山の第3海軍燃料廠に異動を命じられ単身赴任する。廠長は中将の沢達、上司の精製部長は大佐・矢次有人だった。矢次は非凡な頭脳を持ち、正義感が強く、潔癖な人物で、年のあまり違わない中佐あたりでも間違いがあればぶんなぐるようなところがあって恐れられていたが、風戸を理解できる人だったのだろうか、17歳も年下の風戸にだけは全幅の信頼を寄せて、どんな無茶なことも聞いたのだから不思議だ。当時、徳山工廠は航空燃料と艦船の重油を生産しており、朝7時から夜9時まで稼働していた。しかしフル操業するだけの原料が入らない。本工員以外に徴用者も1万人近くいたが、遠くから通勤する者が多く、少ない睡眠時間で疲弊し切っていた。風戸はそれを感じとり、労働時間を減らすべきと考えた。

 そこで矢次に提案した。「矢次さん、どんなに忙しい人も7時には帰すように部長会議で提案してみませんか」。普通なら「馬鹿ものぉ!」とどやされるはずだが矢次はうれしげに風戸を見守り、「うんうん」というようにうなずいた。矢次はすぐに沢廠長主宰の部長会議でそのことを提言した。沢も矢次を非常に信頼していたが、このときばかりは却下した。

(つづく)

Photo:ヨーロッパF2レースでの風戸裕 ─ビル大友著「レクイエム風戸裕」より─

久保島武志
About 久保島武志 (65 Articles)
1967年出版社勤務。自動車レース専門誌「オートテクニック」でレースを支える人々や若手ドライバーのインタビューを手がけ、風戸裕のレーシングダイアリーを編集。1974年、レース中の事故による裕の死を契機にフリーとなり、早稲田編集企画室に所属。「週刊宝石」「週刊現代」等で様々なリポートに携わる。