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風戸裕の短すぎた生涯[37]最終章 「父子、その生き方」③

 小林の体調の良いとき、風戸は軍団のメンバーもまじえて本当に一晩話し明かしてしまった。よく居合わせるメンバーは見識の高い人が多く、特に女性はサムライぞろいだが、彼らが語る裕への熱い思いに、風戸はただただ圧倒されっぱなしだった。

 県の課長という人物に小林がこう言った。
「裕さんの代わりにあんたが死んでくれればよかったのに」

 本人が大真面目に答える。
「ほんとうにのう」

「ああ、こういう人たちに裕は愛されていたのか」。風戸も瑞枝も身震いした。

【登場人物】
風戸 裕=フジで事故死したレーサー。
風戸健二=その父。日本電子創業社長。

 風戸は、自分が山梨大学教授の高橋昇に助けられ、一生つき合っているように、裕も山梨の小林と深い縁で結ばれたことに驚いた。しかも、富士を臨む竜王バイパスの「ピットイン」には、「僕がレースに出ていないときレーシングカーを竜王に置ければいいね」という裕の言葉がきっかけで、「風戸裕メモリアルホール」と命名されたスペースがあった。ポルシェ908MkⅡなど裕ゆかりのマシンが4台、その他ヘルメット、レーシングスーツ、グローブ、レーシングシューズなど裕の数々の思い出の品が陳列されている。山梨の地に裕のすべてが凝縮して在り続けるように思えてくる。

「一度釣りの帰りに私の実家に連れていきました。おふくろがリンゴをむいてくれたんですが、リンゴに指のあとがついてる。私は手を出さなかったのに裕さんは平気で口に入れて『おいしいですね』って食べるもんだから、おふくろがすごく喜びました……」

 お年寄りに特に裕は優しかったと小林。サイン会の途中、杖をついた老人が裕の前でよろけることがあったのだが、裕はサッと手を伸ばしてその体を支えたという。

 裕がついぞ家族にも示さなかった、優しさをごく自然に振り撒いていたというのは風戸にとって最大の救いだった。風戸は裕の本質が優しさにあることに気付いてはいたが、それを愛していても、甘やかすことのできない父親だった。叱咤激励することしかできない父親だった。それだけが悔いとして残っていた。小林に裕の優しかったエピソードを聞かされ、スーッと胸のつかえが消えた気がして、瑞枝と顔を見合わせた。

 裕が、戦う父・風戸健二の姿に触発されて自分も戦いを始めたのは間違いない。それが父子ほぼ同時に終わった……。筆者はそれを運命的な符合と思い込んでいた。

 第2次大戦の敗戦を、風戸健二は、アメリカにではなく日本が科学する心を失った結果によるものだと感じたのとまるで同じようだった。ニクソンショックという仕掛けを行ったアメリカに敗れたようでいて、実は風戸の戦いは、日本人によって潰されたと筆者は思い込んでいた。裕の戦いも日本人たちによって強制的に終わらされたと内心断定していた。短絡的に、裕も風戸も日本のために戦っていたのに、ともに日本人に倒されて終わったと考えていた。

 しかし、風戸は、自らの退任についての筆者の憶測は間違いであり、特に銀行への感謝の気持ちが強いことを淡々と語った。もちろん裕の死に関しても、誰かのせいにすることはむしろ日本のレースの発展を祈った裕の遺志にも背くことだと語った。それまで風戸が筆者と同じ認識だと思い込んでいたために、筆者は混乱し、何もできず、手をこまねいて時の過ぎるのを見守るしかなかった。
(つづく)

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About 久保島武志 (65 Articles)
1967年出版社勤務。自動車レース専門誌「オートテクニック」でレースを支える人々や若手ドライバーのインタビューを手がけ、風戸裕のレーシングダイアリーを編集。1974年、レース中の事故による裕の死を契機にフリーとなり、早稲田編集企画室に所属。「週刊宝石」「週刊現代」等で様々なリポートに携わる。