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風戸裕の短すぎた生涯[39]最終章 「父子、その生き方」⑤

 風戸は静かに、かすれ声で語った。

「もう、ずいぶん前です。日本電子が軌道に乗りかけたころですか。伊藤さん(庸二)がこんなことを言ったことがあります。『風戸君、君の社長は一代限りにしたまえ』」
「どういうことだったんですか」
「さあ、ほかの事を考えていたので、どんな意味か聞きませんでした。伊藤さんが亡くなった後になって思い出して考えてみても、分かりませんでした」

【登場人物】
風戸 裕=フジで事故死したレーサー。
風戸健二=その父。日本電子創業社長。

 筆者の頭にひらめいたのは、伊藤庸二も高松宮も、風戸を、日本電子を助けるために旧財閥系銀行に無理を言い続け、いつの日か日本電子の経営を風戸健二に替わって銀行が取り仕切るときがくることを予期していたのではないかということだった。風戸もそれに似たことを思い、宮に心の内だけで「思し召しのとおりに」と報告したのだろうか。

 田中健二郎は語ったことがある。「俺は、人に迷惑をかける奴を憎む。人に迷惑をかけないということの中には、当然、常に事故を意識して万一の死に備えるということまで含まれる。だから俺はレースに出るときはいつも新しい下着をつける習慣がついた。何かのついでにそのことを風戸に話したら、あいつ『僕もそうです』って言うのさ。前からレースには眞ッさらな下着を身につけてるって」。
裕はいつも自分の死は覚悟していた。そんな人間がいるとは、私には想像もできなかった。

 風戸は裕について語るときはいつも楽しげだった。事故前年、’73年の暮れを思い起こし、「裕と話していて、どこまで行っても当たらない底深さのようなものを感じ、レースが裕に良い結果をもたらしたなと思いました」と、にこやかに話した。しかし、裕の日記もすでに見せてもらっていた私が、「彼は本当にいつも死を間近に感じていた。この時代にこんな生き方をする青年がいるとは思わなかった」と告げると、風戸は顔を引き締め、きっぱりと「特別な生き方と考えるのは間違いでしょうな」と返した。

 さんざん考えたことだったのだろう。同じ昭和の時代、戦争の中で風戸は、常に死を意識しながら生きていたが、それはほとんどの日本人も同じだった。そして裕よりも若くして無数の日本人が死んでいった。また、風戸には国のための戦争であり、国のための顕微鏡づくりだった。それとレースを一緒にできないのは元軍人としての限界だったのだろう。だが、死が常に間近にいる状況を人為的に作り出した戦場に生きる裕の生き方はやはり特別としか思えない。父親としての、キリスト者としての風戸は、それを分かって受け容れた。

 風戸は戦後も世界を相手に戦い続け、勝利し、後に倒れた。そして裕も命尽きるまで世界の戦場を疾走っていた。私は、風戸父子が確かに彼らの生き方を生きたと感じる。

 3000人を超える知人やファンが参列した裕の葬儀では、さまざまな人が弔辞を述べたが全く私の耳に入らなかった。風戸裕の死によって筆者は「もういい」という気持ちを日に日に強めていた。葬儀の進行をぼんやりと見守りながら、とてもこれ以上ドライバーとつき合うことなどできない、レースもいやだと思っていた。だが、葬儀の終わりに裕の父、風戸健二のあいさつが始まると、筆者の全神経が粟立った。

「なんだこれは」という驚きに打たれた。筆者は風戸健二についてほとんど何も知らなかった。それなのに裕のレース活動を見守った風戸と瑞枝の姿が目に浮かんできた。
(つづく)

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About 久保島武志 (65 Articles)
1967年出版社勤務。自動車レース専門誌「オートテクニック」でレースを支える人々や若手ドライバーのインタビューを手がけ、風戸裕のレーシングダイアリーを編集。1974年、レース中の事故による裕の死を契機にフリーとなり、早稲田編集企画室に所属。「週刊宝石」「週刊現代」等で様々なリポートに携わる。