風戸裕の短すぎた生涯[11]第4章 「高松宮に救われ続けた日本電子」① 2015/06/13 裕の生まれた1949年早春、風戸たちは茂原の会社を明け渡してとりあえず東京に出たものの、何度も弱気になっては気力を奮い起こさなければならなかった。 「もう一度同じ道をたどらなければならないのが、なによりも気が重かった。 [...続きを読む]
風戸裕の短すぎた生涯[10]第3章 「裕、自動車レースに魅かれる」⑤ 2015/05/18 1969年(昭44)9月末、タキレーシングのチームメンバーが揃って富士スピードウェイで練習走行する日がきた。裕は初めてカレラ10をドライビングした。いままで裕が経験したことのないパワーを発揮するポルシェのエンジンは裕の [...続きを読む]
風戸裕の短すぎた生涯[9]第3章 「裕、自動車レースに魅かれる」④ 2015/04/07 コーヤマスペシャルは1969年8月10日のNETスピードカップレースを次の戦いの場と決めて準備を進めていたが、エンジンがどういじっても調子が悪い。手直しするには、部品をいくつか現金で買い集めなければならなかった。2~3 [...続きを読む]
風戸裕の短すぎた生涯[8]第3章 「裕、自動車レースに魅かれる」③ 2015/03/27 裕と風戸は初めて向き合い、レースについて話し合った。風戸は頭ごなしに「レースをやめろ」 とは言わないが、危険の伴うレースには反対であることを明言した。「今は学生として勉強に身を入れるときではないか。現在の過ごし方では将 [...続きを読む]
風戸裕の短すぎた生涯[7]第3章 「裕、自動車レースに魅かれる」② 2015/03/04 当時風戸は海外の営業基地建設で海外出張が増え、子どもたちと顔を合わせることもめったにないほどになっていた。そのため、旅先から、思いついては子どもたち一人一人に、あるいはまとめて、絵葉書を出すようになった。たとえば’64 [...続きを読む]
風戸裕の短すぎた生涯[6]第3章 「裕、自動車レースに魅かれる」① 2015/02/17 東京に出たものの、風戸たちはそれまで以上の苦労を味わうのだが、その苦難のさなか、1949年(昭24)3月13日、風戸は第3子・次男・裕(ひろし)を授かった。家には寝に帰るだけの日々だったが、赤ん坊を抱いた風戸は、ふっと [...続きを読む]
風戸裕の短すぎた生涯[5]第2章 「よし、電子顕微鏡でいこう」② 2015/01/30 顕微鏡はできた。次はこれを売っていかなければならない。早速、細菌・金属・粉体・繊維などの写真を撮影した。それを持って大学や研究所を回った。強い興味を示してくれるところもあって、風戸はエネルギッシュに動き回った。トラコー [...続きを読む]
風戸裕の短すぎた生涯[4]第2章 「よし、電子顕微鏡でいこう」① 2015/01/23 終戦数日後、「噴竜」研究プロジェクトの後片付けをした風戸は海軍技術研究所の宿舎へ故郷から軍刀を取り寄せた。日本を救えなかった責任を強く感じ、死ぬ覚悟を決めていた。本気だった。しかし、先に自決した上官が残した「敗戦を乗り [...続きを読む]
風戸裕の短すぎた生涯[3]第1章 誘導ミサイル「噴竜」③ 2015/01/09 「この非常時にそんなことをすれば鎮守府長官に申し訳がないではないか」部長会議は夜行われる。風戸は矢次の副官の立場で、本来会議が終わるまで残っていなければならないのだが、本を読み、適当な時間に家に引き上げていた。「あれだめ [...続きを読む]
風戸裕の短すぎた生涯[2]第1章 誘導ミサイル「噴竜」② 2014/12/31 風戸は最初自分がレースに反対したときの裕の顔が忘れられない。「レースは自分が初めて打ち込めるものなんです。レースには何かがある。自分を高めてくれる道なんです」続けさせてくれるよう必死で風戸に迫った。やがてその目には涙が [...続きを読む]